回天神社(茨城県水戸市)

履歴
回天神社で授与していただいた
パンフレットには、
「回天神社の履歴」として、
創建前から創建、
そして、現在までの歴史が、
詳しく案内されています。
「回天神社の履歴」
「幕末、明治維新のため国事に奔走して
殉難された水戸藩士民は
他藩にくらべて最も多く、
これは光圀公以来水戸藩の
伝統的尊王攘夷の
実践躬行によるものである。
徳川幕政の崩壊により明治二年、
水戸藩最後の藩主であった
徳川昭武公は水戸県初代知事に就任、
その最初の市政として
新政府の許可を得て、
元治元年甲子ノ変(1864)
いわゆる天狗党ノ変において
関東地方各藩にん分拘され
刑死、幽・獄死された
殉難者の遺骸を収容し、
常磐共同墓地の一角、
現在の回天神社境内に合葬した。
これが現在に至る回天神社の創始である。
この合葬の理由は
当時殉難者が反幕の罪人として扱われ、
その遺体は同一場所へ野捨て同然に
処置されたところから、
個々の判別ができず
したがって自家への帰葬が叶わず、
現在地へ合葬されたと云う。
明治二十一年、大日本帝国憲法発布、
市政施行令によって水戸市が誕生、
初代市長服部正義の提唱により、
それまで各家事の墓参行為を
春秋彼岸中ノ日を合同祭祀の日と
定着させた。
現在の本殿、拝殿を囲む玉垣が
その祭事の斎庭の名残りであり、
その正面、祭祀の要として
「殉難」と大書された石碑が建立された。
昭武公の「源朝臣昭武書」と
線刻された角印があり、
幕末、事変当時の水戸藩主側の立場から
慰霊の意を込めたものと考えられる。
この玉垣わきの御神木「楠」はこの当時、
神戸湊川神社の大楠公誠忠を伝える
楠樹の種を育て献木されたものである。
(中略)
明治維新から百年に当たる昭和四十四年、
全国各地でその記念事業が実施され、
光圀公の生誕にゆかり深い家老
三木之次の子孫三木啓次郎、
松下電器産業会長
松下幸之助等の提唱によって、
合同慰霊の斎庭に本殿、拝殿が新造され、
回天神社が創建された。
(後略)」
「斎庭」と聞くと、
思わず「斎庭の稲穂の神勅」を
思い出してしまいます。
天照大神が降臨するニニギに対し、
高天原の神聖な稲穂を授け、
「地上で稲穂(米)を大切にして、
国民を豊かにしなさい」
こんな主旨の神勅を出されたのです。
神代の神勅を忘れ去ったかのような
現在の米騒動、
天照大神はどんなお気持ちで
ご覧になられているのか・・
またもや話が逸れました(汗)
回天神社に戻ります。
殉難者を慰霊することは、
思い半ばにして亡くなった方々の
志を受け止める事でもあります。
これは現在生きている人の
根源に繋がるもので、
先人達が紡いでくれた歴史無くして、
今の世は無いのですから・・
徳川昭武公や服部正義市長も
殉難者の方々へ深く思いを
馳せられていたのでしょう・・
創建の年、
昭和四十四年に建立された神社碑。
幕末の騒乱で亡くなった水戸藩士は、
1.785人と記されています・・
参道
回天館を巡った後、回天神社へ。
参道入口。
境内へ。
手水舎。
丸い形の手水鉢。
なにを表しているのでしょう?
一丸となって尊王に駆け抜けた人々に
敬意を表しているのか、
慰霊の意味なのか・・
手水舎向かいの松の木。
この見事な枝ぶり、
妻のツボにハマったようです!
松の木の傍に建つ「流芳萬古」の石碑。
御社殿
拝殿を前にして
目に飛び込んでくるのは、
参道脇の楠の御神木です。
「履歴」でもあったように、
楠木正成を祭った神戸湊川神社の
楠の種子から成長したもので、
尊王の殉難者の皆様も
さぞかしお喜びかと思います。
拝殿。
参拝。
左から拝殿、本殿、忠魂塔。
本殿に参拝。
忠魂塔に参拝。
神社のパンフには、
「昭和八年、安政の大獄から戊辰戦争
その他の事変で殉難された
水戸藩、宍戸藩を主体とした
士民千七百八十五名を
銅板に刻銘した忠霊塔
(題額徳川圀順公書)が築造された」
このように記されています。
忠魂塔は真裏(墓地側)からも
参拝できるようになっています。
回天館(鰊倉)と忠魂塔も
結構近いので、
敦賀でお亡くなりになった
天狗党の方々も
見つめているのかも知れません・・
淡墨桜
拝殿前には天狗党の関係地から
植樹された木があります。
右は天狗党最後の地、
福井県敦賀市から贈られた松で、
左の桜は、
天狗党を暖かく迎えた
岐阜県根尾村の「淡墨桜」です。
左右の案内板、
左を読んで、右を読むと、
一層心に来ます・・
という事で、
まずは写真付きの左から。
「淡墨桜」
「散りぎわに淡い墨色を帯びることから、
淡墨桜といわれる。
国指定天然記念物である
岐阜県根尾村淡墨桜の
種子から育てた苗木を植樹した。
継体天皇のお手植えともいわれる。」
次に右側。
「献木 淡墨桜」
「幕末 元治元年十二月
尊王攘夷の素志上奏を決して
京へ登る武田西上勢八百余
美濃根尾谷に至る
この地に千三百余年を径たる淡墨桜あり
その由来を知りて
里人の帝を慕う心ずくしの接待に
心なごみ尊王の心やまし
粛然襟を正して赤心一徹
白皚皚の山路へ踏み入りたと云う
平成十二年春例祭にちなみ
昔日の由緒を伝えるべく
乞いて献木を得 植樹されたものなり
平成十二年五月二十一日
はろばろと御霊なごめに越したもう
淡墨ざくら千代の世までも
晶」
天狗党は悲劇に終わったけれど
その魂はこうしてここに生きて、
水戸の皆さんを見守っているのでしょう・・