回天館(水戸市)概要

隊長のお陰
大河ドラマ「青天を衝け」で
少しだけ気になっていた天狗党。
この名が僕の中で一気に増幅したのが、
昨年(令和6年)後半に出会った
「怪奇な歴史研究室」という
YouTubeチャンネルです。
このチャンネルでは、
登録者達から「隊長」と呼ばれ、
親しまれている主催の男性が、
多くの文献等の情報をもとに、
自身で現地を訪問、撮影し、
歴史の闇的なものを含め、
多岐に渡る情報を
全て自己完結で発信されています。
天狗党に関しても当時の水戸藩の事情、
明治維新後まで続いた悲劇など、
素人では到底深掘り出来ないところを
何本ものビデオに、
分かりやすく紹介されていて、
見入ってしまいました・・
そんな中、
回天館の存在を知ったのです。
隊長と出会えたお陰で、
知識と経験の幅が広がった事、
勝手に(笑)心から感謝しています。
回天館の由来
常磐共同墓地で参拝後、
すぐ近くの回天館へ。
ここからは回天神社の境内で、
その一角に回天館があります。
鰊倉だったという回天館、
今は手入れも行き届き、
美しい外観ですが、
その歴史はまさに血塗られたもの・・
天狗党、尊王の志士たちは、
最後の時をこの倉の中で、
過ごしたのです・・・
「回天館の由来」
長くなりますが、
全部書き出してみます。
「この建物は徳川幕府時代の末、
世に云う「天狗党ノ変」における
越前国敦賀の悲劇をつたえ、
明治維新の「礎」として後の世に残すため、
移築保存されたもので、
当時、この建物は北前船の寄港地、
敦賀港にあった十六棟のうちの一棟であり
鰊倉、鯡倉ともいわれた倉庫である。
嘉永年間(1850〜)
イギリス・フランス・アメリカ等
世界列強は、
東南アジア諸国と清国を植民地化し、
あるいは支配下におさめると、
その魔手をわが国に延伸し
開国通商を強請してきた。
幕府はこれらの対応に狼狽し、
安政ノ大獄によって
尊王派・批判勢力を弾圧、
桜田事件を誘発し世情は混乱、
以後、反幕、反幕的思想を内包した
尊王攘夷の嵐が全国にひろがり、
その一挙として筑波山義挙、
いわゆる天狗党の変がおこった。
元治元年甲子ノ年
(1864)春の事である。
この年の夏、友軍の榊原勢と共、
常陸那珂湊一帯で
幕府軍、水戸諸生党軍と
激戦を展開するなか、
榊原勢の降伏により天狗党勢は戦陣を脱出、
十一月一日、
尊王攘夷の悲願を朝廷に訴えるため、
武田耕雲斎を総帥とした
千余の軍団は常陸大子を出陣した。
京都へむけて西上の途路、上州仁田、
信州下諏訪で地元幕府軍の迎撃を一蹴し、
美濃国から冬期は人も通わぬ山岳路を
寒風雪を冒して踏破、
敦賀近くの「新保ノ宿」に至った時、
寒さと糧食を欠き、
幕府軍の重囲に進軍ままならず、
遂に幕府軍先鋒隊加賀藩に降伏した。
元治元年十二月の事である。
天狗党降伏勢約八百名は
敦賀の三ツの寺に分散収容されたが、
加賀藩の処遇は手厚く、
この年が明けた
元治二年(慶応元年)の正月は、
心やすらぐ日々であった。
ところが程なくして、
天狗党勢を追討する幕府軍総督
田沼意尊が敦賀に着来すると、
その扱いは激変した。
まず敦賀港にあった十六棟の鰊倉を
にわか仕立ての牢獄とし、
一棟あたり約五十名を幽閉し、
言語に絶する扱いのあげく、
元治二年(慶応元年)二月四日から
この二月中、五度にわたり
三百五十二名をこの倉から引きずり出し
斬首という、
わが国未曾有と云われる
斬刑に処したのである。
当時、幕府側の開明派勝海舟や、
尊攘派の巨魁西郷隆盛は
「これによって幕府自身の命運がつきた」
と評した通り、
この虐殺から三年後、
徳川十五代将軍慶喜公の幕府は倒れ、
明治維新の夜明けを迎えたのである。
この天狗党ノ変の悲劇から百年後の
昭和三十三年、
敦賀港の整備事業によって、
鰊倉は解体処分される事になった。
水戸の先人たちは
天狗党ゆかりの建物として、
その消忙を惜しみ、
その一棟を水戸常磐神社境内に移築
「回天館」と付けた。
館内には天狗党ゆかりの資料等を展示、
来館者に深い感銘を与えてきたが、
昭和時代の末、
老朽して解体の状況に至った。
これを知った
水戸史学研鑽会吉田塾を主体とした
市民有志と、回天神社により
「回天館移築保存会」を組織、
浄財を募り水戸市の補助を得て、
先人の遺業を継承し、明治維新の礎として、
姉妹都市水戸、敦賀両市盟約の原点であり、
両市の友好親善の絆として平成元年秋、
現在地へ移築完成を見たのである。
現在、回天館は回天神社資料館として、
天狗党関連資料ばかりではなく、
当神社御祭神に係わる
資料等を展示している。
ちなみに、その館名の由来は
幕末、水戸藩の儒学者藤田東湖の
「回天詩史」書名から採り
「衰えた勢いをもり返し、
もとの正しさに引き戻す」意。
回天神社名も同意である。
「回天館」
間口三間半(約七米)
奥行十二間(約二十四米)。
館内の間柱のうち約三分ノ一と、
天井部分の梁等は補強されて
敦賀時代の材が使用され、
中央部の柱とこれを支える土台石、
脇入口の軒瓦も当時の材である。
「宗教法人回天神社御祭神」
昭和八年、安政の大獄から戊辰戦争に至る、
水戸藩及び宍戸藩士民1.785名を
主体とした尊王殉難者を刻名した
忠魂塔が築造され、
これを基に御祭神と定めて、
昭和四十四年回天神社が創建された。
以後、神社創建二十周年を記念して、
合祀にもれていた殉難者を三次に亘り合祀、
現在1.865柱を御祭神と定めている。」
「祭事」
奉季例祭 五月第三日曜日
秋季大祭 十月十四日(大政奉還日)」
いや〜長かった〜!
ようやく書き出し完了です(笑)
コピペ無しに書き出すのは、
めんどくさいし、
タイパ(タイムパフォーマンス)は
低いけれど、
手打ちする事で、
内容がより頭に入ってくるのは、
間違いありませんね!
鰊倉の痕跡
ここからは内部へ。
入口。
この手作り感、
たまらなく素敵だ〜!
一部だけ回天神社のパンフがあったので、
100円を納めて、
いただいたのですが、
実はこれ、見本だったのです(汗)
ちょっと焦ったものの
後で、社務所に行き事情を話し、
見本の補充をお願いする事で一件落着。
良かった〜(笑)
回天館の由来。
内容は先ほどの案内とほぼ同じで、
天狗党の人数や装備などが
詳しく記されています。
回天神社の履歴。
こちらは「神社編」で
改めて抜粋します。
「元治元年 天狗党の戦歴」
こちらは「お墓編」で
抜粋してみる予定です。
裏面。
まずは鰊倉の痕跡探しへ・・
天井の梁、虫も喰っていて、
まさに江戸時代の敦賀を
思い起こさせてくれますね!
茨城県にいて、
福井県を感じられるとは、
なんと贅沢なことでしょう・・
ここに閉じ込められていた
天狗党の諸氏・・
その魂はまだここにあるのかも・・
横からの入口。
この内側の扉が、
また凄いのです・・
館内から見た引き戸には、
貼り紙があります・・
「水戸列士の絶筆です」
「叶」の文字が・・・
貼り紙の文字と古さに
水戸列士の気持ちが
乗り移っているかのようです・・
こちらにも「叶」・・
さらにここにも「叶」。
水戸列士達は、
自分たちの思いが「叶う」事を
ひたすら願い続け、
刑場の露と消えたのでしょう・・・
(続く)