回天館(水戸市)内覧

 

原動力

国内で起きた過去の戦いの跡は、

現代にも残っていて、

戦いは遠い昔の出来事・・

今は一つの日本・・

とは行きません(笑)

それは、地域によって違う

「出来事の紹介の仕方」で分かります。

例えば、平安時代、

朝廷が蝦夷を降した「前九年の役」は、

東北に行くと「前九年合戦」と記され、

ここ水戸の回天館では、

一般的な呼称の「天狗党の乱」は、

「天狗党の変」或いは、

「天狗党事件」と書かれていました。

また、井伊直弼の地元

彦根に行った時には、

直弼の功績や人柄が、

称えられていたのに対し、

水戸では、そうではありません(笑)

でもそれで良いと思います・・

物事の見方は人それぞれだし、

「郷土の偉人に誇りを持つ」、

この一点こそが、

過去の出来事を後世に伝える

原動力になるのですからね!

高橋多一郎父子

ここからは回天館を

半時計回りで巡り、

所々の案内を抜粋、要約してみます。

整然と並べられた展示物、

高橋多一郎父子の人形。

「桜田門外ノ変と同時期、

大阪で尊王攘夷を成し遂げる為、

潜伏して時期を待っていた高橋父子は、

変の後、

大阪市天王寺で捕まりそうになり

親子で切腹を遂げた。

桜田門外の変における敢行者及び、

大阪方面で義挙ならず

自害・斬首・獄死した

二十一列士は回天神社の祭神である。」

佐久良東雄

佐久良東雄は、

大阪で高橋父子を匿い、

獄死した水戸列士です。

Wikipediaには、

「勤王を誓うために還俗。

その足で鹿島神宮に参詣し、

桜樹千株を奉献する。

その桜にちなみ、

佐久良靱負東雄に改名する

(「靱負」(ゆきえ)には、

雪のように潔く消える、

という意味を込めている)。

この桜は現在も鹿島神宮の

鹿園の反対側の森に

「東雄桜」として残されている。」

このように記されています。

開店館に展示さた標柱は、

鹿島神宮にあったものかも

知れません(未確認)

天狗党行軍経路略図

水戸から敦賀までの道のり。

日付も細やかに記されて、

よくぞ記録が残っていたものです。

天狗党敦賀への道年表(前半)

天狗党敦賀への道年表(後半)

「信州和田嶺合戦図」

この和田嶺合戦に関する

遺構が倉の柱の前にあります。

「天狗党和田嶺合戦殉難列士慰霊祭記念」

「この木碑は平成三年秋

長野県下諏訪町史跡浪人塚に建立した

慰霊歌碑であります。

去る四月十八日石碑に替えて

再建したものを持ち帰り、

展示して十有余年に亘って

風雪に耐え慰霊鎮魂の

「しるし」としての労を

ねぎらいたいと思います。」

天狗党浪士寄書

寄書は書いただけじゃなく

描いてもいます(笑)

やはり水戸は、

偕楽園の梅なんでしょう・・

藤田小四郎

次はここに来る直前に

墓参した藤田小四郎さんです。

「藤田小四郎楠公自画賛」。

小四郎さんは尊王ですから

後醍醐天皇に最後まで尽くした

大楠公を崇めていたんでしょう・・

この案内では、

「天狗党事件」になっていますね。

献木行事

ここでも「梅」です。

天狗党が行軍中、

親切にしてくれた岐阜県根尾村から

桜が水戸に贈られ、

そのお返しに梅を贈ったというお話です。

岐阜での献木行事の会長さんは、

武田耕雲斎の五代後の御子孫の方ですね!

天狗党の御霊も

さぞかしお喜びでしょう・・・

鰊倉

回天館は元の鰊倉で、

天狗党最後の住処です・・

監獄なんですが・・・

古い鰊倉の写真には、

大八車も写っています。

鰊倉に押し込められた後、

敦賀で斬首されたもの、

そして、水戸へ送られ

殺されたもの、

結局、天狗党列士の殆どは、

亡くなったのかも

知れません・・・

老朽化した頃の回天館(鰊倉)。

復活して良かった!

敦賀松原にある武田耕雲斎はじめ

天狗党の墓(上)と

敦賀松原神社内の鯡倉(鰊倉)。

武田耕雲斎

ここで主役登場!

肖像。

「藤田小四郎らの筑波義挙後、

天狗党の総大将となり、

京都の徳川慶喜に真情を訴えようと決意し、

大子より西上へ向かった。

途次、大仁田、和田峠の合戦で勝利を収めたが、

戦略功をなさず金沢藩の軍門に降り、

1865年、敦賀の地で刑死した。」

敦賀の墓所前の銅像。

武田耕雲斎着用陣羽織(上)

武田耕雲斎陣中像(下)

天狗党最後の本陣 新保の陣屋外景(上)

同じく内景(下)

関鉄之介

この方もお墓に参った人です。

関鉄之介 和歌。

「桜田門外の変では実行隊長として、

井伊大老を襲い暗殺。のちに逃れるも

越後国で捕えられ死罪となった。」

蓮田一五郎

蓮田さん、初めて聞く名前です・・

蓮田一五郎 和歌。

「1860年、桜田門外の変に加わり、

事件後自訴(自首)し斬首され

29才の短い生涯を閉じた。

後世多くの人に哀惜され、

感動をもって回顧されるのは、

獄中で涙ながらに書き綴った、

母や姉に宛てた遺書。

漢詩・和歌、三十数首の遺詠。

事件の有様を記録した「幽囚筆記」や

襲撃現場の絵画、

また、幕府評定所での取調べに対する

見事な応答ぶりが

その理由となっている。」

蓮田一五郎さん、

世が世ならば、

大いに活躍された事でしょう・・

金子孫次郎(教孝)

この方も初めて聞くお名前です。

肖像。

井伊直弼襲撃には参加せず

大阪で義挙をはかるも

捕まり江戸で処刑されています。

那珂湊沖異国船接近図

これは珍しいかも?

「笠は塗りたるが

黒くして光なし」

細やかな観察眼、

素晴らしいですね!

桜田門外の変

ある意味、クライマックス・・

「愛宕山集会之図」

浪士達はここに集合して、

桜田門へ・・・

「桜田門外の変」

「万延元年(1860)

3月3日の桜田門外の変は、

17名の水戸浪士と、

1人の薩摩の士によって決行され、

大老井伊直弼は倒された。

大老の死が、幕府の権勢を

甚だしく崩したことは言うまでもない。

しかし、水戸藩でもその年の8月、

斉昭は急病で亡くなり、

その後の水戸藩は舵を失った船のように、

勤王・佐幕に分かれ、

激しい紛争を続けるのである。

(天狗党のたたかいなど。)

しかし東湖や正志斎の著書は、

この後も各藩の志士に熟読され、

学派を超えた日本学として、

時勢を推進し、

ついに王政復古・明治維新の

大業は達成されるのである。

水戸の道しるべ

(水戸史学会編)より抜粋」

桜田門外之図。

ちなみに現在水戸市と彦根市は

敦賀市の仲立ちにより友好都市を

結んでいます。

その他

最後に詳細は分からないものの

撮影したものを二枚。

藤田小四郎の詩?

天狗党、筑波山義挙の詩(多分)

博物館的な要素も満載の鰊倉、

・・・ではなく回天館、

これで少しは天狗党と水戸藩に

詳しくなれたかも知れません(笑)

 

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