桂浜松林(呉市倉橋町)

 

万葉集に詠まれた町

現在の元号「令和」の語源となった

日本最古の和歌集である「万葉集」。

その万葉集に、

ここ倉橋島の桂浜で詠まれた句が、

八首掲載されている事から

倉橋島は「万葉の里」と呼ばれています。

桂浜に建つ案内板。

万葉集よりも

牡蠣に目がいく僕ですが(笑)

桂濱神社参道脇の案内板。

ここでは、

御座船~万葉集史蹟長門島の碑~

財崎神社~桂浜ドック跡と巡ります。

御座船

まずは、御座船へ。

綺麗にメンテナンスされ、

美しい状態が保たれています。

かしこまった博物館の中に

展示するのではなく、

誰もが通りすがりに

気軽に見学できるのが、

また素晴らしいと思います。

「管絃祭と倉橋島」

案内を書き出すと

「旧暦の六月十七日、

宮島では厳島神社の管絃祭が行われます。

この管絃祭の御座船は、

古くから倉橋町で建造されてきました。

この由緒は、明らかでありませんが、

江戸時代の倉橋島の船棟梁

浜田屋善右衛門以来、

代々、浜田屋が奉納してきました。

御座船に使用された管絃船は、

縁起が良いとされ、

祭りの後は希望の漁民などに払い下げられ、

翌年の建造費にあてられていました。

現在は、

厳島神社から注文がある度に建造を行い、

船は「厳島管絃船倉橋御用講」の

有志によって奉納されています。

ここに展示した管絃船は、

昭和三十七年と六十一年に

建造された御座船です。」

このようになります。

萬葉集史蹟 長門島之碑

次は浜辺に建つ石碑へ。

「萬葉集史蹟 長門島之碑」

桂濱神社の案内にあった、

「天平八年(736)遣新羅使、

大石蓑麿卿の一行が下向の時、

倉橋の海上に泊船し詠まれた歌の一首、

「わがいのち長門の島の小松原

幾代をへてか神さびわたる」の句の他、

合計八首が詠まれたことなどが

刻まれています。

財崎神社本殿

次に海岸近くの、

桂濱神社の御旅所でもある

財崎(さいざき)神社へ。

桂浜松林の一角に建つ一の鳥居。

神明鳥居をくぐり拝殿へ。

案内には、

「財崎神社本殿(桂濱神社の御旅所)」

「建築形式

一間社入母屋造、平入、

向拝唐破風付、銅板葺。

由緒

財崎神社本殿は、棟札により

明治3(1870)年、

日向飫肥藩主の13代、

伊東左京大夫祐相により発願され、

建立されたことがわかります。

(中略)

棟札に「御用達」と記された

友澤半三郎敬明は、

桂浜の才の木で造船業を

営んでいた友澤家のもので、

明治元(1868)年に

飫肥藩から注文を受け、

「興隆丸」の建造を行った人物です。

この本殿は、この興隆丸の完成を祝して、

飫肥藩から奉納されたものと

考えられます。」

このように書かれています。

広島県の倉橋島まで来て、

飫肥藩(宮崎県日南市)や

藩主の伊東さんの名前が出てくるとは、

正直、驚きました(笑)

伊東さん、参勤交代の時に、

ここを船で通っていたのでしょうか?

遠く飫肥藩からも注文があったとは、

それだけ、ここの造船業は、

盛んであったという証拠なんでしょう。

手前が拝殿、右奥が有形文化財の本殿。

拝殿前の松ぼっくり。

何故かここに集中しているのを

妻が発見。

参拝。

本殿。

本殿後側から。

桂浜ドック跡

次に、ドック跡へ。

道路脇にも案内が出ています。

ドック跡。

絵入の案内によると

「古くから和船の建造は、

砂浜で行われていましたが、

倉橋島では江戸時代の

元文・寛保(1736~1743)の頃、

天然の入り江を改良した

「船渠」(せんきょ)が考え出されました。

潮の干満を利用して和船の引き上げ、

進水を効率的にさせる船渠は、

当時としては新しい発想の

造船方法でした。

明治に入り、西洋型船の普及と

船舶の大型化により、

明治15年(1882年)

船渠は大きく改良されました。」

このように書かれていますので、

現在残されているものは、

明治時代に改良された

一部と思われます。

これにて、桂浜松林の散策は完了、

この日最後の目的地、

音戸町に鎮座する

八幡山神社を目指します。

 

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