勝山御殿(山口県下関市)

 

江戸時代末期の築城

戦国時代の華々しい戦いや

個性ある武将達の

覇権争いばかりに目を奪われて、

幕末の志士とかには

正直あまり興味がなかった僕ですが、

佐賀県や、ここ山口県を旅してみると

数々の幕末の志士達の熱い思いが

伝わってくる旧跡に多く出逢い、

今や、幕末から明治維新に活躍し、

そして、散っていった志士たち、

その後、明治政府でも重鎮となった

多くの若者にも興味がそそられて、

僕の人生の持ち時間?は

不足しまくっています(笑)

そんな幕末の攘夷運動で、

長州藩が外国船を砲撃し、

その後手痛い報復を受け、

それまで海辺にあった御殿を

慌てて(多分)内陸部に作ったのが、

ここ勝山御殿です。

勝山御殿へ

下関の中心部から

車で20分ほどで、

勝山御殿に到着します。

現地の案内板は、

2010年に出来た割には、

痛みと変色が激しく

まるで昭和の案内板かと思うほど(笑)

画像処理してもこのくらいです。

材質に問題があるのか、

環境が過酷過ぎるのか?

こちらの方が綺麗です。

これは「現在地」と書かれた

御殿の横方向から見た図面なので、

玄関口である「大手」は

右端になっています。

実際に大手を正面として書かれた

縄張図がこちらです。

この縄張図は、

余湖くんのホームページ様

ご好意により転載しています。

今は広場になっている本丸には、

藩主の立派な館が建っていました。

しかし、これは明治維新後に不要となり

取り壊され、わずか10年ほどで

無主の地になっています。

ただ、今でも石垣をはじめ

遺構はかなり残っているので、

史跡公園として、

下関市民の憩いの場になっています。

三の丸、大手の石垣。

(復元されたのかも)

三の丸横側の石垣。

このあたりはしっかり

昔のままの石垣ですね!

これも遺構でしょう。

江戸末期に緊急的に作った感が

石垣の積み方にも出ています。

早急に工事をやらねばという

必死感が伝わるのが、

なんだか嬉しい(笑)

二ノ丸の石垣は、

まるで天守台のように立派です。

実際の石も大きなものが

使われていますね。

二ノ丸の石垣その2。

二ノ丸の石垣、向かって右側。

見応え十分!

登城口というか

本丸の広場に向かう階段です。

往時のものではなく、

公園化のために作られている感じです。

ここが御殿があった本丸。

 

こちらは本丸へ左横から

入る道で、ここは

枡形虎口っぽくなっています。

その虎口の石垣。

しかし、この当時は、

大砲やライフル銃など、

武器も近代化されていたし

敵の侵入を防ぐ枡形虎口など

作ったところで無意味だったはず。

デザイン的なものかも知れません。

本丸から「本丸奥」の段へ。

奥というだけあって、

奥方や側室などが住んでいた場所です。

奥の御殿跡。

御殿跡の広場の一角に

大きな岩がありました。

説明がないので、

とりあえず大きさの比較(笑)

本丸奥の奥(笑)には

綺麗な水をたたえた池があります。

これが昔のなのか、

公園化して作ったのかは

わかりません。

本丸奥から見た本丸表。

この御殿の背後には山城があります。

かつて大内氏の居城であった

勝山城(且山城)や、青山城で、

興味津々でしたが、

この日はさすがにそこまで登る

気力はありませんでした(汗)

二ノ丸でツーショット。

そして、最後の一枚はこちら。

二ノ丸から下界を臨む。

こうして見ると、

背後には要害である山が控え、

正面は視界が良く、見張りも利く

好立地だったことがわかります。

勝山御殿、幕末の長州藩が

外国や幕府から生き延びる為に

必死で作り、

その短い役目を終えたあと、

150年後の平成の世の中で、

家族団らんの広場になっているなんて、

当時の藩主、

毛利元周(もとちか)さんが見たら

何と言うのでしょうか?(笑)

 

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