城上神社(石見銀山)
「気」が良い場所
城上(きがみ)神社の鎮座地は、
大森代官所跡のすぐ隣です。
代官所よりも
神社が先に出来ていますから
神社の隣は「気が良い」
という理由もあって
代官所を配置したのかも知れません。
全部勝手な推測ですが(笑)
参道
大森代官所跡にある
「いも代官ミュージアム」を見学後、
一旦車に戻って、小休止し、
再度、代官所跡の前を通って城上神社へ。
橋を渡って、右に曲がり、
代官所跡を過ぎると
突き当たりに見えてくるのが、
こんな景色です。
社頭。
石垣と御神木が見応えありますね!
石段にて境内へ。
一の鳥居。
手水舎。
清浄な水と柄杓でのお手水。
大きさ比較のため妻登場(笑)
手水舎はこんな大きな御神木の下に
配置されていて、
ここにいるだけでも癒されます。
そして、
手水舎の向かいに
配置されているのが、
「亀石」と呼ばれる石です。
亀石の由来は以下になります。
「千年ほど前、城上神社が
仁摩町馬路の城上山にあった時、
海防の神として貝の化石のある石と
海亀の姿の石を奉納して
海の安全を祈った。
永享年間、愛宕山に遷座した時は
二つの石は運ばれたが、
その後、
天正年代に現在地に遷座したときには、
亀石は運ぶのを忘れられた。
亀石は「自分の甲(亀甲)は、
城上神社の紋所だ、
行かなければ」と山を下ったが
自らの重さに
山の麓の川底へ沈んでしまった。
その後、
川からは不思議な音がするようになり
引き上げると亀の形をした石だった。
大正年代まで道端に置かれたが、
この石がある夜、
敬神家の夢の中に出て、
ことの次第を打ち明けて、
城上神社の境内に
上げて欲しいと頼んだ。
そして、ここに落ち着くことになった。」
馬路(まじ)に城上神社があったとは
マジか〜(笑)
偶然ですが、
馬路駅に行った時の写真に、
城上山らしきものが
映り込んでいました。
奥に見えるのが、
城上神社最初の鎮座地
城上山でしょう(多分)
御社殿
手水を終え、参拝へ。
正面の広場からの風景。
拝殿。
拝殿の案内を
抜粋すると以下になります。
「拝殿正面は10.22m、
側面は11.88m。
屋根は重層式の入母屋造り瓦葺背、
江戸の亀戸天満宮を
手本にしたものと伝えています。
拝殿の鏡天井には、
三瓶山近くの絵師であった
梶谷円隣斎守休が極彩色で、
「鳴き龍」を描いています。
祭神には大物主命(大国主命)を祀り、
銀山と大森町の両方の氏神でもあります。
社伝によれば永享六年
(1434)大内氏によって
馬路村の高山から愛宕山に遷座、
天正五年(1577)に毛利氏によって
現在地に遷座されたと伝えられています。
寛政十二年(1800)の
大火で焼失しましたが、
文化九年(1812)四月に
現在の社殿が再建されました。」
先ほどの亀石の案内では
「最初の鎮座地は城上山」でしたが、
こちらは「高山」となっています。
石見銀山のガイドさんのブログ、
「石見銀山通信」によると
「昔、高山は城上山と言われていた。
現在、城上山と言えば
高山の西隣の山を指す」
なんか、ややこしいですが(笑)
このように書かれていますので、
矛盾はしないということでしょう。
文久二年(1862)寄進の狛犬。
吽形。
しめ縄が立派です。
亀石さんが言っていたように(笑)
神紋は「亀甲」です。
「鳴き竜の天井」
案内を抜粋すると以下になります。
「竜の持つ玉は、如意宝珠といわれて、
欲しいと思うものを
思いのままに出すことができる
宝の玉として知られ、
天災や、人災病魔から、その家を守り、
家運隆盛・商売繁盛の幸運を呼ぶ。
と伝えられています。
寛政十二年(1800)に、
不幸にも大森町の大半が
焼失するという大惨事に襲われ
当社も類焼しました。
それから十一年を経て
ようやく自分の家を建て、
この氏神様を再建することができました。
この時、氏子の有志たちで、
こうした大惨事に再び襲われないようにと、
周囲を家紋で囲んだ竜の絵天井を奉納し、
併せて
家運隆盛と、商売繁盛・病魔駆逐を
お祈りいたしました。」
お〜確かに竜(龍)が、
家紋で囲まれてますね!
そして、
鳴き竜体験を・・・
手を叩くと、
めっちゃ良い音が響きます!
素晴らしい「気」をいただけ、
なんとも言葉では言い表せません。
拝殿内全景。
那須与一さんもいらっしゃいます。
外に出て、拝殿左側から本殿へ。
拝殿と同じく200年以上前、
大森町の発展を祈って、
建てられたであろう本殿に参拝。
拝殿前にてツーショット完了。
境内社
本社参拝後は、境内社へ。
稲荷神社。
御祭神不明の境内社。
燈籠に梅が彫り込まれているので、
きっと天満宮だろう(笑)
と思いつつ本殿へ。
天満宮に参拝。
鳥居近くの境内社に参拝。
ここまでで、
城上神社の参拝は完了し、
大森町の散策へと向かいます。