奇兵隊陣屋跡(下関市吉田)
栄光の影
奇兵隊の華々しい活躍を語る時、
その栄光の影にある、
倒幕後に起きた、奇兵隊士たちの
悲劇を思い起こさずにはいられません。
伊藤博文など奇兵隊中枢メンバーは、
明治政府の要人となるものの
多くの隊士たちはリストラされ、
職を失い、途方に暮れた挙句、
反乱を起こし、鎮圧され、
多数の元奇兵隊士が、
親兄弟の前で見せしめに処刑されるなど
凄惨極まりない厳しい罰を受けたのです。
正直、リストラ組には、
同情しかありません・・・
人類の歴史を紐解けば、
珍しくもない出来事ですが、
戦う相手がいなくなれば、
不要な人間は切り捨てる・・・
これが世の常なんでしょうか。
奇兵隊を創設し、
その末路を見ずして、
この世を去った高杉晋作、
奇兵隊士の悲惨さを
見せるに忍びなかった神様が、
早めにお召しになったのかも知れません。
奇兵隊陣屋跡
高杉晋作の墓所「東行庵」を調べている時、
近くに奇兵隊陣屋跡がある事を知り、
先に巡ることにしました。

下関駅から車で約50分、
目的地の陣屋跡に到着。

エントランス。

大きな木がある所が、
陣屋の正面入り口跡で、
その両脇の平地が兵舎などの
建物があった場所になります。

向かって左側の兵舎跡地。
周囲には空堀があったのかも
知れません・・・

石碑などへ。

「奇兵隊陣屋跡」の石碑。

「奇兵隊陣屋跡」案内板。
以下、全文です。
「文久三年(1863)六月、
萩本藩主の命を受けた
高杉晋作が馬関に出張し、
武士以外の人たちも入隊を許し、
奇兵隊を結成した。
奇兵隊は翌。元治元年、
米、英、仏、蘭、四ヶ国連合艦隊を
前田砲台などに迎撃し、
勇気をもって戦ったが
新兵器を有する連合軍に敗退した。
同年十二月、高杉晋作の挙兵後、
美東町、大田絵堂の
内訌戦に勝利を得たのち、
慶応元年四月に奇兵隊は吉田に転陣、
慶応三年八月に兵舎、稽古場、
講堂などを配した陣屋を
この地に築き移った。
陣屋では、
きびしい規律に従い四百人の志士が
毎朝六時起床、八時まで講堂で漢字を学び、
九時から調練の日課で、
外出は隔日に五人一組で、
吉田区内の散策のみが許された。」
ちょっと気になるのが、
「講堂で漢字を学び」の部分で、
ここは「漢字」ではなく
「漢学」ではないかと推察します。

奇兵隊陣屋配置図。
右上の「生兵(せいへい)」が気になり
調べたところ「新人兵士」の事でした。
諺で「生兵法は大怪我のもと」の
「生兵」ですね(笑)

「奇兵隊士之像」
特定人物の銅像ではありません。

右手に鉄砲、左手に刀を持ち、
遥か遠くを見つめる奇兵隊士。

左側面から。

お顔アップ。

足元はわらじです・・・

凛々しい後ろ姿。

敬礼する妻と共に。

ツーショットで〆。