郡山城(奈良県大和郡山市)
事前準備は大切
郡山城に到着した時、
駐車場がどこなのかわからなく
グルグルと城の周囲を
回ってしまいました。
事前の調査不足といえば
その通りで、
やはり「行けば多分わかるだろう」
そんな甘い考えが、
時間のロスを生んだのです。
やはり最低限の事前準備は、
大切だと改めて実感(汗)。
毘沙門郭
ようやく見つけた(笑)
追手門前の駐車場から
最初に向かったのは天守台・本丸の
掘りの外にある毘沙門郭です。
案内によると
郡山城の石垣には、
墓石、石仏などの転用石が、
多数使われています。
これについて、Wikipediaによると
「1585年(天正13年)
豊臣秀吉の弟豊臣秀長が
大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国
100万石余の領主として郡山城に入る。
秀長は城を100万石の居城に
相応しい大規模なものに拡大し、
城郭作りや城下町の整備を急いだため
根来寺の大門を移築したり、
当時大和は石材に乏しかったために、
天守台の石垣には墓石や
石仏(地蔵)までも用いられている。」
このように書かれています。
転用石というのは、
安土城、福知山城などをはじめ、
多くの城で見られるもので、
その当時、石垣に石仏を使うことが、
罰当たりな事ではなく、
「合理的である」とされていた
宗教観に興味がわきますね。
堀を隔てて天守石垣を臨む。
石垣の角の部分は、
初期タイプの算木積みで、
この古風な風情が、
戦国期を思わせてくれます。
逆に天守台から見た毘沙門郭。
久護門跡。
追手門
次に追手門へ。
追手門。
城外側。
追手門櫓・多門櫓
追手門をくぐると見えてくるのが、
追手門櫓と多門櫓です。
正面が追手門櫓、
右側が多門櫓。
左から、追手門櫓、多門櫓、追手門。
ここから柳沢文庫へと向かいます。
柳沢文庫
追手門櫓を右に見て、
坂を登っていくとそこにあるのが、
柳沢文庫です。
Wikipediaよれば、
「郡山城毘沙門曲輪に
昭和35年(1960年)秋、
郷土の子弟教育のさらなる
発展を願う有志により、
柳沢保承(郡山藩旧藩主家)が作った
郷土史書を中心として設立された。
明治時代に建設された
旧柳沢邸を館施設としている。」
このように書かれています。
すでに閉館時間が過ぎていたので、
僕たちは入館していません。
毘沙門郭の石垣
柳沢文庫から追手門櫓に戻り、
大回りをして本丸へ。
毘沙門郭の石垣が見えています。
本丸・天守台
本来は、柳沢文庫横の、
極楽橋から本丸に渡るのが、
大手道だったそうですが、
現在、極楽橋は復元中で、
本来は、搦手だったところからが、
本丸への道となっています。
左側に見えるのが工事中の極楽橋。
余談ですが、極楽橋の復元の為に、
地元の方が3億円も寄付されたそうです。
素晴らしいとしか言いようがありませんね!
竹林橋櫓の石垣。
ここを過ぎると、
柳沢神社が鎮座していますが、
神社は次回のブログで書きますので、
ここでは割愛します。
本丸の天守台に到着。
案内。
野面積の石垣。
西側から。
西側の堀。
なかなか迫力ありますね!
さかさ地蔵
天守台を一周していて見つけたのが、
「さかさ地蔵」です。
北側の石垣の一角。
さかさ地蔵。
案内には、
「頭部を奥にうつむきに
積み込まれているために
さかさ地蔵の名で呼ばれています。
仏身は約90センチで、
左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、
大永三年(1523年)の
刻銘があります」
このように書かれています。
参拝。
こんなところで、希少な
地蔵菩薩様に出会えるとは、
思いもよりませんでした。
地蔵菩薩様、やはり僕たちを、
郡山城に呼んでくださったのかな?(笑)
天守台頂上
天守台の上にも行けるので、
登ってみました。
後世に作られた階段ですが、
石垣の雰囲気を壊さない、
いい感じのデザインです。
天守台には、
さらに展望台までが
設置されています。
雨ですが、思った以上に
大和郡山市の町並みが見えています。
晴れると展望台からはこんな
景色が見えるらしい(笑)
最後は天守台をバックにツーショット。
雨でも傘はささない、やせ我慢(笑)
お城以外の見所
毘沙門郭にあったのが、こんな一角。
観阿弥供養塔。
南北朝時代から室町時代にかけ
能を大成した観阿弥と息子の世阿弥。
観阿弥の出身地は、大和国(奈良県)
ということにちなんで、
ここに供養塔があるようです。
そして、もう一つが、
同じく、毘沙門郭に建つ、
旧奈良県立図書館です。
案内を抜粋すると、
「明治41年(1908)
日露戦争の戦勝を記念して
奈良公園内(現在の県庁の南側)に
建てられた
奈良県最初の県立図書館です」
このように書かれています。
取り壊すだけでなく、移設して、
後世に残す気持ちが有り難いですね!