ペリー上陸記念碑(横須賀市久里浜)
乗りかかった黒船
浦賀の町を歩くと、
至る所で「ペリー」や「黒船」に関する
案内や写真などを目にします。
正直、ペリーに興味が無かったで僕も、
これだけ頻繁に目にすれば、
いつの間にか頭に入ってくるもので、
ペリーの来航は、
嘉永六年(1853)六月、
乗船していた黒船の名前は、
「サスケハナ号」ということまで
完全に覚えてしまいました(笑)
これだけペリー漬けになったのも
何かのご縁だし、
浦賀から横浜へ向かう時間的な余裕もあり、
「乗りかかった船」ならぬ、
「乗りかかった黒船」(笑)という事で、
浦賀から京急電車で久里浜へ行き、
「ペリー上陸記念碑」を
訪問することにしたのです。
不思議な話
東林寺で中島三郎助の墓をお参りした後、
参道を下りながら、
妻が小学生の頃の友人、
「さいとう」さんの
思い出話をしたその直後、
ふっと横の家の門を見ると
掲げられた表札には
「さいとう」と書かれていたのです!
言葉は言霊と言いますが、
これはまさにその通りで、
この不思議な出来事は、
今でも鮮烈に記憶されています。
ただし、
妻の身の回りではこんな出来事が
よく起きるので、
決してレアケースではありません(笑)
イートイン
お腹が減りすぎた僕達は、
浦賀駅に行く前、
ミニストップのイートインで、
お昼を食べる事に。

店内に入った時、
イートインコーナーには、
誰もいなかったのですが、
数分間の買い物が終わった頃に、
イートインは満席に・・・・(汗)
仕方なく、食べ物を持って、
再度、浦賀駅を目指しながら、
途中で食べられるところを
見つける事にしたのですが、
全くないのですよ・・・

鋭意パワーダウン中(笑)
サンタクロースっぽい衣装の
お地蔵様にお参りしたりしながら、
ひたすら浦賀駅へと向かいます。

腹ペコ状態で浦賀駅に到着。

結局、
行きがけにお菓子を食べた
駅構内のイートインスペースを
再び使わせていただくことに。
やっと食えた〜(笑)
(写真は行きがけのものです)
久里浜へ
まずは浦賀駅から堀ノ内駅へ。

妻、乗車中。

堀ノ内駅から特急に乗り換え久里浜駅へ。
久里浜からは、
バスで「ペリー上陸記念碑」へと
向かったのですが、
乗り継ぎ時間と心に余裕がなく、
この間一枚も写真を撮っていという、
珍現象が起きたのです(笑)
ペリー上陸記念碑
バス停降りて記念碑前までは、
徒歩で5〜6分。

正面入口。
この前面に広がるのは、
久里浜海岸です。

砂浜と海と房総半島。
ペリーもこの景色、
見たのでしょうか?

「ペリー上陸記念碑物語」
以下、全文です。
「長い間外国との貿易を制限していた
徳川幕府に1853年(嘉永6年)
アメリカ大統領の国書をもって来航した
東インド太平洋艦隊司令長官ペリーは
幕府と交渉し強い態度で開国を迫り、
ついに1853年7月14日幕府に
大統領の国書を受理させ
再来日を約束しアメリカに帰りました。
このとき今まで200年以上にわたり
外国との交流を閉じていた日本の地に
外国の使節団が上陸し、
幕府とアメリカの交渉が行われた場所が
久里浜であり、新しい日本の夜明けは
この久里浜から始まったのです。
ペリー提督が初めて日本の地に
上陸してから47年後の
1900年(明治33年)10月23日
アメリカ退役海軍少将ビアズリーが
夫人と共に久里浜を訪れました。
ビアズリーは17歳の時、
少尉候補生としてペリー提督と共に
久里浜に上陸したのです。
彼は青年の頃訪れた美しい久里浜に
たくさんの思い出があり、
アメリカの使節団が初めて訪れた地に
何も記念するものがないことを
残念に思いました。
ホテルのある横浜に帰ったとき
新聞記者に久里浜でのことを話しました。
その内容が新聞に掲載されました。
また、明治政府の下で
近代社会を築きつつあった
明治10〜20年代には
前途有為な人達が
留学や働く場所をもとめて
欧米に渡りました。
特にアメリカに留学し日本に帰国した後、
政界や経済界で活躍する人達が集まり、
1898年(明治31年)
交友の場として米友協会が設立され、
その米友協会の席上でもビアズリーが演説し、
このことが契機となって
当時の米友協会の会長で
ハーバード大学で学んだ
金子賢太郎男爵(当時)を中心に
上陸記念碑建設の運動が起こり
「記念碑建設委員会」が組織され
募金や明治天皇の下賜金によって
記念碑は完成し、
1901年(明治34年)7月14日
ペリー上陸と同じ日に除幕式が行われました。
参列者は桂首相ほか
閣僚、徳川家達、榎本武揚、
アメリカからはビアズリーや
ペリー提督の孫にあたるロジャース少将等、
総数1,000人で
久里浜沖では日本の軍艦が
祝砲を放つなど盛大な式典となりました。
日米親善の象徴となった
上陸記念碑ですが太平洋戦争時には
アメリカに関するものは
敵性のものと憎まれ
1945年(昭和20年)2月8日
横須賀市の翼賛青年団を中心とした
グループに引き倒されました。
ところが半年後の8月15日に終戦となり
11月に復元されました。
日本の歴史上大切な足跡を刻んだ
このペリー上陸記念碑の意義を
これからも大切に見守ってゆきましょう。
参考 記念碑の大きさ
高さ4.5m 幅2.4m 重さ11.4t
仙台産の花崗岩 碑の台石は根府川石
刻まれている文字は伊藤博文の書で
「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」と
書かれており
碑文を彫刻した石工は
横浜の横溝豊吉です。」

案内図。

記念碑正面。

少しアップ。

さらに石碑をアップ。

錨と共に。

斜めから。

石碑前のレリーフ。
ペリー艦隊がアメリカから出航し、
大西洋〜希望峰〜インド〜
中国〜沖縄と巡り
浦賀までの航海の軌跡が
地図で記されています。

裏面。

石碑をアップ。

大きさの比較で妻登場。

ペリーの故郷、米国ロードアイランド州
ニューポートの石。

ペリー記念館。
この日は休館日なので、
外観のみの見学です。

風見鶏は黒船バージョン。

ペリー胸像。

素晴らしい彫刻ですね!

戸田伊豆守の胸像。
この方が久里浜でペリーに会い、
大統領の国書を受け取った方だそうです。
僕は全く知りませんでした・・・

胸像アップ。
石碑
最後に周囲の石碑へ。

記念碑の正面左側の石碑へ。

この石碑は、
昭和十年建立で、
米友協会からその意思を受け継ぎ、
今後の記念碑の管理は、
伯理記念碑保存会が行いますという内容です。
ここでの注目は、
「米友協会」の「米」の文字が、
削られている事です。
恐らく戦時中、敵性のものとされ、
この一文字のみを削ったのかと
思います・・・

「じょうきせんの碑」
「泰平の ねむりを さます
じょうきせん
たった四はいで 夜も寝られず」
「泰平の世に突如として現れた
四隻の黒船を見た人の
驚きを端的に表現したのが
この落首である。
なお、「久里浜村誌」によれば、
この落首は、老中 松平下総守(間部詮勝)
号 松堂作ともいわれている。」
ここで歌われた
「じょうきせん(上喜撰)(蒸気船)」は
4杯ではなく事実は「2杯」だったこと、
浦賀駅前の歴史絵で知りました・・・
実際には、蒸気船が2隻、
帆船が2隻だったのです。
歴史は真実よりも「有名なもの」こそ
一般民衆に流通するという
典型的な例でしょう。
僕もこれを知るまでは、
「一般民衆」でしたからね(笑)

ここでツーショット完了。

帰りの京急久里浜駅行きには、
記念碑のすぐ前のバス停から乗車。
1時間に1本という少なさですが、
ラッキーな事に、
タイミングは完璧でした(笑)