中野竹子殉節の地(会津若松市)

 

手荒なお導き(笑)

戊辰戦争における会津藩の

女性防衛隊「婦女隊」として

薙刀をふるって戦い、

壮烈な戦死を遂げた中野竹子の存在を

半年前までは知りませんでした。

その名を知ったのは、

この4月に行った札幌旅行

計画を立てていた時の事です。

何故か意味もわからず「中野竹子」と

僕がメモしていたのを妻が見て、

「中野竹子って誰?」

そう言われて初めて

詳しいことを調べたのです。

その後、

札幌の北海道神宮へ行き、

島義勇しまよしたけ判官銅像の前で、

妻が「竹」の切り株で足を怪我し、

痛いながらも妻の口から出たのは、

「竹子さんが呼んでいる!」でした(笑)

こちらが怪我の現場(笑)

島義勇判官像の前です。

この怪我が決定打となり、

今回の旅をすることに。

島義勇の「たけ」、竹の切り株の「たけ」

そして中野竹子の「たけ」、

こんな偶然の出来事を「導き」として捉え、

それに乗っかるのも乗っからないのも

自分達次第・・・

薙刀で奮戦する竹子さんですから

手荒なお導きにも感謝するしか

ありませんね(笑)

中野竹子殉節の地へ

竹子さんは「涙橋」付近で

亡くなったと聞いていたので、

涙橋にに行こうとしたのですが、

付近に駐車場がなく、即切り替えて、

次の目的である竹子さんの像がある

殉節の地へと向かいます。

分かりやすい案内。

ここにもあります。

お邪魔しま〜す!

案内を抜粋すると

以下になります。

「慶應四(一八六八)年

八月二十三日(旧暦)より始まった

若松城下の戦いで藩士の子女が

多数自害した事は知られているが、

城外で戦う女性達も存在した。

中野竹子もその一人であった。

竹子は妹の優子、母孝子等の女性達で

一隊を結成、

藩主の義姉である照姫が坂下に移ったと聞き、

姫の守護のため坂下に向ったが、

途中で引き返し、お城に入るべく高久に

布陣していた会津家老萱野権兵衛隊に

従軍を願い出たが詳されなかった。

そのため、会津藩兵と一緒に戦っていた

旧幕府軍の一つである古屋作左衛門の

衝鋒隊に加わり城に向ったが、

涙橋付近で長州・大垣藩を中心とする

新政府軍と遭遇、激戦となった。

この戦いで竹子は辞世の歌

「武士の猛き心にくらぶれば

数には入らぬ我が身ながらも」を

短冊に認め、

薙刀にくくりつけて奮戦したが、

敵の銃弾を受けて

二十二歳の若さで戦死した。」

これはある意味、特攻ですね・・

鉄砲相手に薙刀で勝てるとは思わずとも

せめて一矢報いて死のうという

覚悟の凄さに身が震え、

目頭も熱くなるというものです・・

中野竹子像

まずは竹子さんの像へ。

像と石碑は向かい合っています。

竹子さんだから

竹組の囲いなんでしょうか(笑)

凛々しいお姿・・

正面から。

鳥の糞だらけで(汗)、

文字が霞んでいますが、

「赤誠」の文字は確認できます。

竹子さんにふさしい二文字ですね・・

石像を眺めていたら

赤トンボが飛んできて

すぐ近くに止まったのです・・

竹子さんが来てくれたのかな?(笑)

中野竹子殉節之地碑

次に石碑へ。

石碑は昭和十三年の建立で、

題字の「源保男」は、

松平容保の七男、

「松平保男」さんではないかと思います。

石碑裏面。

辞世の歌、

「武士の猛き心にくらぶれば

数には入らぬ我が身ながらも」と、

その奮戦と死の経緯、

顕彰の言葉が刻まれています。

この後は、

竹子さん巡りの本丸(笑)

竹子さんのお墓がある

法界寺へと向かいます。

 

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