蓮光寺・生き残り門(大分県宇佐市)

 

「運」

各地を旅して常に思うのが、

人も建造物も

長く生き、繁栄するには、

自身の努力や頑強さとは無関係に、

「運」が必須だという事。

蓮光寺の山門も同じです。

戦争末期の空襲で、

周囲の本堂など、

他の建物は焼失したのに、

山門だけは無傷で、

そのまま残っているのですから

間違いなく、

「運」が良かったという以外ありません。

蓮光寺へ

僕たちは、

宇佐市平和資料館の展示で、

連光寺の「生き残り門」を知りました。

まずは、当初予定していた

長洲神社などへと向かい、

その後で、訪問する事に。

ところが、

資料館を出発して少し行くと

妻が突然、雄叫びを(笑)

「あっ!門の案内があった!」

資料館と門は意外と近かったのです。

しかし、

既に車は通り過ぎていたので、

そのまま長洲神社へ向かう事に。

いくつかの神社などを参拝後、

門のことをスッキリ忘れた僕たち(汗)

院内町方面へ車を走らせていたところ

ふっと、

「あ!忘れてた!あの門を」

そんな話になり、

運良く、引き返したのです(笑)

連光寺のすぐそばには、

広々とした訪問客用の

駐車場が完備されています。

宇佐市の戦争遺跡に関する

力の入れ方を改めて感じながら、

まずは、駐車場に立つ案内を確認。

「柳ヶ浦地区空襲の傷あと」

案内を書き出すと

以下になります。

「昭和20(1945)年3月18日、

宇佐は米軍艦載機による

最初の空襲を受けました。

その後も空襲は続き、

昭和20年4月21日には

爆撃機「B29」による初空襲で

航空隊関係者だけでも300人以上、

民間人を含めると

500人近くが犠牲となりました。

柳ヶ浦地区にも多大な被害が出ており、

当時の空襲の傷あとが今も残っています。

江戸時代の造り酒屋である

津島屋本家「総督」酒蔵跡、

浄土宗本願寺派蓮光寺山門(生き残り門)

三洲国民学校(現柳ヶ浦小学校)の

弾の痕が残る塀などが保存されています。」

生き残り門

駐車場から徒歩1分、

蓮光寺に到着です。

生き残り門(山門)と本堂。

わずか数十メートルの距離が、

建物の命運を分けたのか・・・

正面。

梵鐘が見えていますので、

鐘楼門です。

「アメリカ空襲

生き残りの門

安政二年建立」

案内を書き出すと、

「昭和二十年四月二十一日午前八時二十五分

B二十九の空襲により本堂・庫裡全壊する

この門のみ奇跡的に倒壊せず寺の面目を保つ

この日近くだけて死者十名全半壊二十戸」

このように書かれています。

「寺の面目を保つ」

この一言に仏様の存在を感じますね。

新しい案内。

山門真横から。

境内側左斜めから。

境内側正面から。

本堂

門の周りをグルっと見学した後、本堂へ。

石畳の参道と本堂。

参拝。

そして、

本堂向かって左側で見つけたのが、

こちらです。

 

「明和八年建立の本堂台石」

(明和八年=西暦1771年)

空襲で倒壊した本堂の台石でしょう。

説明とともに、

ここに残してくださったこと感謝です・・

こちらは同じく明和八年建立の

本堂向拝柱の象鼻です。

こちらも貴重なものを

保存してくださっています。

手水鉢には案内はありませんが、

空襲当時も使われていた気がします・・・

盃状穴らしきものも確認出来るので、

やはり江戸時代のものでしょう。

最後に本堂を背にして

再度、生き残り門を撮影。

 

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