輪王寺・相輪橖(日光市)

 

移転

輪王寺の案内でよく見かけるのが、

「移築」という文字です。

特に、明治時代に入っての移転は

神仏分離の為、

日光山全体に配置された

多くの建物を

「こちらは神社」、「あちらはお寺」

などと配分したことに起因するのでしょう。

ただ、「廃仏毀釈」の風潮から

日本全国の寺院が廃寺になったり、

歴史ある貴重な建物が

破却(破壊?)された事を思えば、

輪王寺の建物群は、

恵まれているのかも知れませんね。

大護摩堂

三仏堂を拝観後、

すぐ後ろの大護摩堂へ。

大護摩堂のエントランス。

「大護摩堂」

以下、案内です。

「「護摩祈願」を行うお堂です。

護摩とは修行者が

「火」を焚いて魔障を払い、

供物を捧げて仏を供養することで、

さまざまな利益りやくをもたらす修行です。

日光山の100棟以上の歴史的建造物は、

すべてが木造建築の指定文化財で、

火の取り扱いに制限があり、

多くの参拝者の要望に応えるため

平成10年(1998)に

新築されました。

堂内には不動明王を中尊とした

五大明王(平安中期作)を中心に、

七福神や祖師像など

30体の尊像が祀られており、

年間を通じて毎朝7時30分・

午前11時・午後2時の3回、

護摩祈願を行なっています。」

三仏堂で案内をしてくれた方が、

「世界遺産になってから

火を使う行事がなかなか

難しくなったんです・・・」

こんな話をされていました。

調べてみると

世界遺産に登録された時期が、

大護摩堂が建立時に重なるので、

「火」対策の一つだったのでしょうね。

そして護摩堂内には

こちらの方がいらっしゃいます。

天海大僧正の坐像」。

天海さんは、

徳川家康の側近であり、

また、その後も秀忠、家光と

三代に渡って仕えた偉い人。

一年間ほどの限定公開の中、

見ることができたのは

ラッキーでした。

光明院稲荷社

大護摩堂向かってすぐ左側に

小さなお社があります。

石垣は超立派!

「光明院稲荷社」

案内を要約すると

「鎌倉時代中期、

日光山第24世・弁覚法印が、

日光山の総本坊として

「光明院」を創建し

その鎮守として建立されたのが

この稲荷社です。

戦後時代衰退するものの

「天海大僧正」によって再興されますが、

明治の神仏分離の混乱期に

焼失してしまいました。」

このようになります。

参拝。

相輪橖そうりんとう

次に

稲荷社・大護摩堂の正面、

三仏堂の裏側に配置された相輪橖へ。

全景。

相輪橖そうりんとう

以下、案内です。

「高さ16mの仏塔です。

寛永二十年(1643)

徳川三代将軍家光公の発願ほつがんにより、

日光山第53世「天海大僧正」が

世界の平和と繁栄を願って、

東照宮の奥院鬼門に建立しましたが、

その後の大地震のために

新宮(現 二荒山神社)境内に移築され、

さらに神仏分離によって

明治14年(1881)に

現在地に移されました。

内部にはお釈迦様の舎利(遺骨)に

見立てた「お経」が納められています。

正面左右にある燈籠は、

山内最大の青銅器燈籠で

糸割符いとわっぷ1燈籠」とよばれます。

家康公から生糸輸入の特権を許された

京都、堺、江戸、大阪、長崎の

糸割符商人が奉納したもので、

胴体部分のレリーフは、

中国の「二十四孝の物語」が

モチーフとなっています。」

やはりこちらも移築されています。

正面から中へ。

左右の燈籠も絢爛豪華ですね。

右手前の宝篋印塔。

どなたかの供養等でしょうか・・・

三仏堂側の燈籠。

奉納は、慶安元年(1648)、

徳川家康公の33回忌です。

大護摩堂側の燈籠。

眩いほどのひかり方ですね!

近年修復されたのでしょうか?

相輪橖に参拝。

つい、ロケットを連想してしまう僕・・・

まだまだ修行が足らんな〜(笑)

(続く)

 

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