諏訪原城(静岡県島田市)後編

 

諏訪神社

諏訪原城という名前は、

武田勝頼が崇敬していた

諏訪大社をこの城に勧請して

建立したことに由来します。

ビジターセンター情報)

武田信玄の四男として生まれた

勝頼は母方の諏訪氏を継ぎ、

「諏訪勝頼」と名乗っていた時期もあり

やはり諏訪大社は

特別な存在だったかも知れません。

ただ、家康の城となった後は、

「牧野城」と名前を変えていますので、

諏訪神社がそのまま存続していたとは、

あまり考えられません・・・。

実際は牧野城時代の方が、

諏訪原城時代よりはるかに長いので、

家康は自身の元服式をした

静岡浅間神社とかを

勧請した可能性は、

ゼロではないと思います。

それでも現在の城址は、

「諏訪原城」と呼ばれているし、

「諏訪神社」も鎮座しています。

ということで、

武田勝頼さんも草葉の陰から

喜んでいるのではないでしょうか・・

二の曲輪大手馬出(諏訪神社)

現在、諏訪神社は、

地図の赤く塗った場所、

二の曲輪大手馬出に建っています。

丸馬出全体が境内として

ここだけは木々の伐採も

行われていません。

三日月堀と丸馬出し上の境内。

境内へ・・・

いや、丸馬出内へ・・・?

どっちなんだ~(笑)

諏訪神社の案内も立派です。

古めの案内。

「諏訪原城は天正元年(1573)、

武田勝頼の臣、馬場美濃守氏勝を

築城奉行として築かれた

規模雄大な山城であり、

当時の東海道武田領の最前線、

牧の原台地の東北角を占めた

天然の要害であった。」

このように書かれています。

ここには徳川家康という名前はなく、

何となく

武田氏贔屓な感じがしますが、

この看板が作られた当時は、

まだ発掘調査もあまりされていなく、

遺構がどの時代のものかは、

分からなかったのかも知れません。

御社殿へ

徳川時代に作られた丸馬出の

真ん中あたりに建てられた御社殿へ。

拝殿にて参拝。

左が拝殿、右が本殿。

本殿は覆屋のような感じもします。

妻が見つけた武田菱の神紋。

家康さんがこの丸馬出を作った時、

まさか、武田菱の諏訪神社が

その上に建てられるなんて、

想像もしていなかったでしょう。

もしかすると450年の時を超え、

勝頼さんは諏訪原城奪還に

成功したのかも?(笑)

丸馬出内部の全景。

二の曲輪中馬出に戻り、

ツーショット完了。

最後にビジターセンター横の墓碑に参拝。

これにて丸馬出の宝庫、

諏訪原城の散策は完了です。

 

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