2020/02/14

鋳銭司(すぜんじ)郷土館(山口県山口市)

 

地方創世

安倍総理も地方の人口減少に

歯止めをかける目玉として

地方創世という

政策を実行していますが、

各機関を東京から地方に移し

その雇用を促進しているのは、

一定の効果があっているのかも

知れません。

ただ、僕が旅していると

地方には素晴らしい内容の

博物館や歴史館があるのに

館内はガラガラで、入館者より

職員の数が多いのでは?

と思う時もあり

地方創世はまだまだかも

知れません。

そんな現状を何とか

解消できないのかと

考えたりしますが、

解決方法の一つは

「発信力」でしょう。

例えば、

素晴らしい材料を使い、

愛情を込めて

美味しいお菓子を作っても

それを知ってもらわなければ

誰にも買ってもらえません。

これと同じように、

本当に郷土を愛した人たちが、

地元にいくら良い歴史館を作っても

知られなければ誰も来ません。

発信することは、人の心に響き、

響けば、それに共鳴する人が現れ、

共鳴は、さらなる共鳴の拡大を産みます。

言うは易し・・か(汗)

今回訪問した鋳銭司郷土館は、

僕たち二人の貸し切り状態で、

僕たちだけの事を思えば、

独占して楽しめたし

内容も充実していて、地元の方々の

愛情もたくさん伝わってきた

素晴らしい施設でした。

鋳銭司郷土館へ

鋳銭司郷土館は、

大村神社と隣接しています。

地図では池の上部に大村神社、

そのすぐ右側に鋳銭司郷土館が

描かれています。

それにしてもこの史跡マップは

分かり易くていいですね!

営業案内。

周辺観光などの

立派な案内板もあります。

山口の偉人たちに混じって

必ず出て来るのは、

高知の坂本龍馬。

山口ならず長崎でも鹿児島でも

福岡でも出て来ます(笑)

いかに彼が凄い功績を

残したかということを

物語っていますね。

観光コース案内図。

ここで僕が気になったのが、

向かって左の真ん中あたりに鎮座する

嘉川八幡宮です。

「山口地方特有の楼拝殿造り」

そう書いてある所に反応(笑)

最初に参拝した

北方八幡宮の近くにあったんだ〜

う〜ん残念。

またの機会を作ろう!

周辺案内図。

鋳銭司郷土館全景。

鋳銭司郷土館入口付近アップ。

大村益次郎は、明治維新の年に

亡くなったのか…

覚え易い年ですね。

館内に入ると

親切な職員(学芸員)が、

迎えてくれました。

まずは、15分ほどある

大村益次郎のDVDを鑑賞し、

その生涯を頭に入れて館内を巡るので、

これは本当に良い方法だと思いました。

もちろん僕たち二人だけの為だけに

職員の方が放映してくれたので、

大村益次郎を知らない人も

これで展示されているものが、

楽しめるはずです(笑)

大村益次郎を描いた

40年以上前の大河ドラマ

「花神」のひとコマ。

中村梅之助と浅丘ルリ子、

懐かしい顔です。

四境戦争と呼ばれる

第二次長州征伐で、

大村益次郎の采配が冴え大勝した

石州口(島根県)の

戦いについての解説など。

今年の春、僕たちが旅した浜田城

このとき、焼け落ちたのでした…

新政府軍が旧幕府軍と戦った

戊辰戦争について。

その中での上野戦争についての

案内によると、

総司令官の大村益次郎は、

最前線には出ず、

軍服ではなく着物姿で

江戸城にいて指揮をとったそうです。

指揮官は大局を把握するためにも

このような泰然自若とした

行動は大切です。

アメリカとの戦争で、

日本軍の指揮官は

最前線にいた人が多いのに

アメリカの指揮官は後方から

状況把握をしながら戦っていました。

勝利を掴むのは

「心のゆとり」がある側でしょう。

大村益次郎、さすがですね。

司馬遼太郎の花神からの一節を紹介し、

ここで分かり易く解説が入っています。

大村益次郎の転機は三回、

1:宇和島藩に招かれた時

2:幕府の好待遇を捨て長州に仕えた時

3:四境戦争で指揮官となった時

人には色んな転機があるもの、

全てが好転したように見える

大村益次郎も、きっと色んな

軋轢や悩みもあったのでしょう。

逆に考えれば、ただの村医者で

一生を過ごせば、暗殺などされず

天寿を全うしたのかも知れません。

しかし、神様は大村益次郎を

日本国の為に放っておくことを

しなかったのでしょう…

大村益次郎のコーナー内部。

咸宜園(かんぎえん)で洋学を学ぶ。

日田に来ていたのですね。

門下生には、

教科書にも出て来る蘭学者の

高野長英や総理大臣になった

清浦奎吾もいます。

当時の咸宜園。

日田なら近いので、

行ってみたくなりました。

そして、扉に貼ってあった番付。

山口出身の幕末活躍した人の番付で、

なかなか面白いものです。

大村益次郎は西の横綱。

やはり吉田松陰は東の横綱でした。

スイッチを押すと

人間関係がわかるというもの。

写真付なのが有り難い。

一目瞭然で、素晴らしいですね。

コーナー中央の畳と机。

この小さなスペースで、

勉学と寝起きをしていたとは。

展示を見ながら思った事…

「腹減った〜」(笑)

朝早く起きて、

お昼過ぎまで旅三昧の

僕たちのお腹は、

もはや限界に近づいていました。

展示物を見る力が〜〜〜↓

気力を振り絞り、

館内反対側のメインスペース

鋳銭司(じゅぜんじ)のコーナーへ。

館内のデザインは、

大村益次郎のコーナーと同じです。

日本で硬貨が作られた期間は

意外と短く、

中国から輸入している時期が

長かったようです。

貨幣の年表。

徳川幕府は貨幣流通も含め、

室町時代までとは

大きく違っているのがわかります。

山口には8カ所中2カ所も

鋳銭司があったのに注目。

長期間稼働していたのは、

ここ周防の鋳銭司のみで、

ここは貴重な遺跡ということが

よく分かりました。

小判の金の含有量の変動が

面白いですね。

小判一枚と一文銭4,000枚が

同じ価値なんですね!

よ〜く分かりました(笑)

お金の作り方。

ここでは、

お腹が減り過ぎていたので、

もう流して見るしか

気力が残っていませんでした(笑)

実際にはかなり充実した展示で

じっくりと見ると、

もっと素晴らしさを

実感出来たはずですが、

やはり腹が減っては戦はできぬ、

戦いの前に降参でした(汗)

 

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