多賀城(宮城県多賀城市)多賀城碑

 

創建1300年

多賀城の創建は神亀元年(724)。

僕たちが多賀城を訪問したのは、

令和6年(2024)7月。

創建1300年という節目の年に、

多賀城を訪問できたこと、

また、1300は、

妻のラッキーナンバー13とも通じ、

多賀城から勝手に「ご利益」を

いただいている気分です(笑)

南辺東地区

岩手県の鳥海柵とのみのさくから東北自動車道を南下、

約2時間のドライブで多賀城に到着。

多賀城南側の駐車場からスタート。

見事なまでに美しく整備されています。

案内。

「ここでは築地塀に

取り付く櫓が発見されました。

奈良から平安にかけ3回建て替えられ、

見張りの役目だけでなく

多賀城の正面を荘厳に飾るねらいも

あったと考えられます。」

多賀城より80年ほど後、

坂上田村麻呂が造った胆沢城などと同じく、

「権威」として見せつけるものは、

統治者として必要だったのでしょう。

土塁と堀(湿地)の組み合わせは、

戦国期の城と同じですね。

池の右側が櫓跡で

正面の木々が見えるところに

南門が復元中です。

白鷺ちゃんもお出迎え(笑)

「多賀城南辺東地区整備案内図」

「ここは多賀城の外周を囲む

外郭線の南東隅のエリアで

南辺が土を積み重ねた築地塀、

東辺が丸太を立て並べた

材木塀となっていました。」

全部が築地塀かと思っていたら

材木塀なるものもあったとは、

全部を築地塀にするのは、

めんどくさかったのかも?(笑)

のどかな風景に癒されながら散歩・・

ハスの花に癒されます。

築地塀と櫓の横を通り、

一番の目的地、

多賀城碑方面を目指します。

丘の上へ。

丘から振り返ってみると・・

こりゃ〜凄い!

築地塀、櫓、湿地が一目瞭然だ〜!

多賀城碑

ここからは多賀城碑三昧です(笑)

「多賀城碑/壺碑(つぼの石ぶみ)」

「奈良時代に多賀城の修造を記念して

制作された石碑です。

2代藩主伊達忠宗の頃に

土中から発見されると、

西行や源頼朝が和歌に詠んだ

歌枕ゆかりの地「壺碑」と関連付けられ、

有名になりました。それにより、

当時の文化人や学者の

注目を集めるところとなり、

仙台藩や民間の俳諧師により

保護顕彰されてきました。

江戸時代にここを訪れた松尾芭蕉は、

時間とともに変わりゆく歌枕の中で、

多賀城碑だけが昔からの変わらぬ姿を

留めていることに感動したことを

「おくのほそ道」に記しています。」

やはりここでも芭蕉さん、

登場していますね(笑)

覆屋に接近。

「重要文化財 多賀城碑」

「多賀城

去京一千五百里

去蝦夷国界一百廿里

去常陸国界四百十二里

去下野国界二百七十四里

去靺鞨国界三千里」

ここまでは案内文の抜粋で、

多賀城からの距離が記されています。

「靺鞨」(まつかのくに)は

中国東北部のことで、

ここだけは、

アバウトに三千里と書かれています(笑)

また碑文の後半は、

多賀城の文化財」というサイトから

訳文を含む解説を

引用させていただきます。

「多賀城が神亀元年(724)

大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)

によって設置されたこと、

天平宝字6年(762)

藤原恵美朝臣朝狩

(ふじわらのえみのあそんあさかり)

によって改修されたことが記されています。

最後に天平宝字6年12月1日と

碑の建立年月日が刻まれています。

この碑は

「壺碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれ、

江戸時代初めの発見当初から

歌枕「壺碑」と結びついて

広く世に知られていました。

松尾芭蕉も旅の途中にこの碑を訪れ、

深い感動をもって対面した様子が

「おくのほそ道」に記されています。

多賀城碑は、群馬県の多胡碑(たごひ)、

栃木県の那須国造碑

(なすのくにのみやつこのひ)とともに

日本三古碑のひとつに数えられており、

令和6年8月27日に

国宝(古文書)に指定されました。」

こんな超貴重なものが、

よくぞ見つかったものですね!

また、

僕たちが訪問した翌月の8月27日、

多賀城碑はめでたくも

「国宝」に指定されているので、

「重要文化財」表記の案内は、

これもまた貴重かも知れません(笑)

覆屋の中を覗いてみると・・

遂に生多賀城碑とご対面!

日差しが強過ぎて、

下半分はワッフルみたいに見えますが、

この碑を見た松尾芭蕉は、

次のように書き記しています。

「行脚の一徳、存命の悦び、

羈旅きりょの労を忘れて 泪も落るばかり也」

多賀城碑と初対面した

芭蕉さんの超感動ぶりが、

この一文に凝縮されていますね!

僕のワッフルとは大違いです(笑)

こちらは時間をおいて

再度撮影したもので、

「多賀城」、「西」などをはじめ、

刻まれた文字も確認できます。

背中も撮影。

こちらから見ると、

「壺碑(つぼのいしぶみ)」と

呼ばれた意味の一端が

なんとなく分かる気がします・・。

(続く)

 

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