田中正造記念館(館林市)前編

 

文明は人を幸福にしたのか?

光が強いほど影も濃くなる・・・

足尾銅山において光の部分は、

最盛時には国内の銅のうち

40%を産出し、

国家運営に大いに貢献した事。

そして、影の部分は、

足尾鉱毒事件として知られる、

深刻な公害問題です。

以前のブログでも書いた通り、

足尾銅山を訪問すると

この「影」の部分は、

ほぼ示されておらず、

近代国家形成に大いに貢献した

その「光」の部分しか目にする事は、

ありません・・・

逆に、鉱毒被害を被った

足尾銅山の下流域にある

田中正造記念館など

「被害者側」の施設では、

その逆で、

足尾銅山は負の遺産としての

記述が多くを占めています。

一部国民の犠牲を伴ったとしても

外国に侵略されない強固な日本を造るという

「国是」を遂行した結果こそ

足尾銅山の全てでしょう。

そう考えれば、

極端ではありますが、

戦いもなく1万5千年も続いた

縄文時代が良かったかも知れません。

本当に文明は人を幸福にしたのか?

足尾銅山の光と影を肌で体験し、

改めてそんなことを考えています・・

外観

館林城の城下町を再現した界隈、

歩いていて実に気持ちがよく、

足尾鉱毒事件とは、

結びつかないほどののどかさです。

田中正造記念館の壁と

石のオブジェもいいですね!

「田中正造記念館」

この幟がなければ、

まるで武家屋敷の正門です。

門横の掲示板では、

田中正造さんが自らがお出迎え。

実にありがたし!

門の真ん中に注目。

これは何でしょうか?

目に優しいグリーンに

ちょっと癒されます。

記念館全体像。

庭の真ん中に何やらあるので、

ちょっと確認を・・

「渡良瀬川を知る流木」

「田中正造終焉の地庭田四郎さんの末裔

庭田隆次さん採集」

このように記されています。

一時は鉱毒汚染された渡良瀬川も

今は、清流となって、

この地域を潤しています・・・

その歴史を知る流木を

ここに安置する事は、

田中正造さんと被害住民にとり、

特別な意味があるでしょう・・・

距離感

玄関へ。

「歓迎」されています(笑)

館内に入り受付を済ませると

学芸員らしき女性が

つかず離れずの距離感で

親切に対応してくれたのですが、

この「絶妙の距離感」が実に気持ち良く、

今でも田中正造記念館の

素敵な思い出として残っています。

パンフレット

パンフレットを読むと、

足尾鉱毒事件と田中正造を

ほぼ知ることができますので、

ここでは全文を書き出します。

「私共の住んでいる渡良瀬川下流域は、

かつて足尾銅山からの鉱毒によって

大きな被害を受けた地域です。

この問題が顕在化した

1890(明治23)年以降

私共の先人達は、この問題解決のため

田中正造翁とともに、

館林市下早川田にある

雲龍時を拠点に鉱業停止等を

求めて大挙上京請願活動などを

行ってきました。

流血の大惨事になった

川俣事件から120年余、

先人たちの苦労を知る人も

少なくなってしまいました。

こうした風化を心配した人たちから、

活動の拠点となった館林市に

何らかの施設をとの声が上がり、

当市局のご配慮もあって、

小さいながらも手作りによる学び舎

「NPO法人足尾鉱毒事件田中正造記念館」

が2006年10月に開館いたしました。

私たちはこの「学び舎」で

あらためて公害の原点ともいわれる

鉱毒問題や、

近年地球温暖化による

気候変動等環境問題も含め

学んでいければいいと願っています。」

「まだ終わらない 足尾銅山鉱毒事件」

「江戸時代に発見された足尾銅山は

幕府直轄を経て、明治10年、

古河市兵衛の経営となる。

その後、新しい鉱脈の発見、

機械化により足尾銅山は明治17年には

生産量日本一の銅山となった。

製錬時の煙害で山の木は枯れ、

保水力をなくした山は洪水を増やし、

鉱毒を含んだ水は渡良瀬川沿岸の人々の

生活を襲った。魚は死に、作物は枯れ、

人体まで害が及んだ。

被害民たちは原因を調べ、

衆議院議員田中正造とともに

銅山の創業停止を訴えた。

しかし富国強兵・殖産興業を

是とする明治政府は、

憲法に基づいた被害民たちの

請願行動(大押出し)にさえ

弾圧を加え逮捕した。(川俣事件)

さらに鉱毒問題を治水問題にすり替え、

下流の谷中村を貯水地にすべく

強制的に廃村とした。

足尾銅山は昭和48年(1973)に

閉山となったが、

製錬時に出た有害な廃棄物の

堆積場や坑道が残っている。

下流域の農地では農作物の

生育に鉱毒被害の影響が見られる。

足尾銅山鉱毒事件はまだ終わっていない。」

「未来に生きる 田中正造」

「田中正造は天保12(1841)年、

現栃木県佐野市小中町の

名主の家に生まれ、

17歳で名主に選ばれた。

しかし、

領主六角家への抗議運動で入獄。

明治維新後は現岩手県の下級官吏を勤める。

明治7年故郷に戻り自由民権運動を志し、

同12年「栃木新聞」を再刊、

翌13年には栃木県会議員に当選、

後、立憲改進党に属し、

明治24年第2回帝国議会で

足尾銅山鉱毒事件についての

質問書を提出し、

政府の責任を厳しく追求した。

明治29年、

渡良瀬川の大洪水で鉱毒被害が深刻化。

正造は沿岸被害民の人権問題として

救済に生涯をかける。

しかし、数回にわたる被害民の

操業停止請願運動も政府に受け入れられず、

明治34年議員を辞職。

天皇に直訴する。

明治37年谷中村廃村、

貯水地化計画に抗議。

谷中村民とともに社会に訴え、

残留民とともに谷中村復活を唱えた。

明治43年関東地方を襲った大洪水の後、

正造は利根川水系全体の

河川調査に取り組み、

その途上、大正2(1913)年

9月4日73歳で死去。

その思いは、

自然と人間の共生につながっていく。」

パネル展示

パネル展示は1〜12まであり、

各々の内容を短くまとめてみました。

「1 恵みの川 渡良瀬川」

「足尾の森林から流れ出る

肥沃な腐葉土のお陰で、

下流では漁業、農業が発展、

大きく栄えていた・・・」

「2 足尾銅山、鉱毒事件を起こす」

「1890(明治23)年8月の

渡良瀬川大洪水をきっかけに

鉱毒事件が拡大し住民は

大被害を受けることになった。」

この後、豊かな川は、鉱毒の川へと

変わっていくのです・・・

「3 下野の百姓 田中正造」

「自由民権運動を展開、

栃木県議となり、

県令三島通庸の「暴政」と戦う。

正造の活動を支えたのは

「下野の百姓」の

自覚、誇りであったと

言えるのではないでしょうか。」

「4 正造の議会活動と政権」

「田中正造は衆議院議員となり、

足尾銅山の操業停止を求め

努力しましたが、

殖産興業・富国強兵を目指した

政府の方針は、覆りませんでした。」

「5 「操業停止を」と東京大押出し」

「作物も人も大きな被害を受け、

東京に押出し(請願)をするが、

事態はなかなか進まず・・・」

「6 川俣事件、公判のたたかい」

「正造と被害民が、

第4回の押出し(請願)をした際、

警官・憲兵隊がそれを阻止しようと

暴行を引き起こしたのが川股事件です。

事件後は被告51人は、

公判でたたかい、

事実上無罪となりました。」

無罪になった背景には、

世論のバックアップがあったのは

大きいかと思います。

「7 正造直訴、わきたつ世論」

「明治34(1901)年12月10日

議会開院式より帰途の明治天皇の馬車をめがけ

「お願いがございます!」

と叫びながら飛び出した・・・

この直訴は正造の単独行動ではなく、

半年ほど前から、毎日新聞社主筆の

石川半山と万朝報貴社の幸徳秋水の

三人によって計画されていた。

直訴は失敗に終わったが、

新聞などで直訴を知った人達は

政府と足尾銅山を厳しく非難し

救済運動が活発化し、

このように正造の直訴は、

大いに世論を呼び起こした。」

「8 谷中村つぶし 湧水地化強行」

「鉱毒問題をを治水問題に

すり替えた政府は、

巨大な湧水地を造るために

谷中村を廃村する事に決定し、

住民らの反対を押し切り、

強制退去させた。」

「9 深まる 正造思想」

「谷中村強制破壊後、

正造は自らの足で、

関東全域の河川を調べ、

治水のあり方を深め、

文明と自然、人の生き方を

私たちに問いかけています。」

「10 正造の死、改めて今」

「田中正造の遺品

枕元には菅笠と合切袋が置かれ、

中には小石3個、

マタイ伝と大日本帝国憲法の合本、

新約全書、日記帳3冊、

河川調査の原稿、

鼻紙数枚、川海苔の入った瓶が

入っていました。

帝国憲法と聖書は、

晩年の正造の闘いの大きな支えでした。

郷里小中にあった土地と家屋は、

すべて地元小中の人々に

寄付されていました。」

「11 足尾に緑を、渡良瀬に清流を」

「渡良瀬川の上流と下流を結ぶ市民運動は、

まず「足尾に緑を 渡良瀬に清流を」

の幟をたてて、

1982年、「サケを放す会」発足で

始まりました。

サケが戻り始めた1986年、

「足尾に緑を育てる会」が発足、

年ごとに大勢の人々が参加しています。」

このように前向きに始まった

再生事業でしたが、

僕は残念なお知らせを

発見したのです・・・

「東日本大震災・東電福島原発事故で

サケの卵も放射能汚染、

サケを放す会の活動は一時停止、

いまは再開を検討中です。」

・・・

もう言葉がありませんね・・・

文明とはかくも人を苛むのですよ!

やはり縄文時代に戻るしかないのかな・・

「12 わたしにできることは・・・

〜正造さんから学ぶ事〜」

「文明は山を荒らさず、

川を荒らさず、村を破らず、

人を殺さざるべし」

これは正造さんの残した言葉です。

学びはここからしかありませんね・・

(続く)

 

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