田中正造旧宅(佐野市)隠居所
県をまたぐ連携
博物館関連施設を旅のメインとする場合、
「営業日の確認」は必須です。
今回の旅の2日目は、
ここ佐野市の田中正造旧宅と
館林市の田中正造記念館の二つが
主目的でしたので、
ちゃんと事前に調べていました(笑)

田中正造旧宅の営業日は、
基本が、火・木・土・日曜日。
そして、
もう一つの田中正造記念館も
全く同じ営業日なのです。
恐らくこれは旅行者への配慮でしょう。
実に有難いじゃないですか!
お陰で僕たちは、
両方を満喫できたのですからね。
栃木と群馬、自治体は違っても
こんな県をまたぐ連携があるって、
本当に素晴らしいと思います。
パンフレット
まずはパンフから。

表面。

内面。
各所の案内がありますが、
実際、各所現場に行った際、
この案内を書き出すこととします。
隠居所・外観
「旧宅」の主な構成は、
隠居所と主屋の二つで、
道路に面しているのが、
隠居所になります。

左が田中正造誕生地墓所で、
道路を挟んだ向かいが隠居所です。

正面から撮影。
右から、隠居所、表門、便所。

隠居所外観。

「田中正造邸宅 隠居所・表門・便所」
案内を書き出すと
以下になります。
「隠居所は間口四間半、
梁間四間半の二階建ての建物で、
二階を間口四間、梁間四間にした、
瓦葺屋根である。
一階の間取りは、東側二間を土間、
西側の2間半を居室部にして
三部屋に区切り、
二階は床の間のある座敷を含めて
五部屋に間仕切る。
表門は一間一戸の腕木門と呼ばれる形式で、
便所は間口一間、
奥行一間の屋根切妻造りの
小さな建物である。
隠居所、表門、便所は
同じ時期に建てられたもので、
詳細は明らかでないが、明治の初めごろに
建てられたものと推定されている。
伝えられるところによれば、
隠居所は正造が
父母のために建てたという。
昭和初期に修理がなされ、
昭和二十四年、
隠居所は公民館第一号として
地域の発展に長く貢献し、
活用されてきた。
近年、建物の老朽化が著しく進み、
今回の修理が行われた。
修理工事に並行して行われた調査により、
隠居所の建てられた当時の姿が
ほぼ判明したので、
これを機に、
当初の姿に復元整備された。
竣工後の姿を見れば土間内には、
発掘調査で明らかとなった
井戸が再現され、
正面の戸口の雨戸には、
のぞき窓があるなど、
当時の生活をうかがうことができる。
便所と表門は、
ほぼ当時の姿のまま残されており、
特に便所の柱や梁は、
別の建物の材料を用いて
建てられたことが判明した。
平成五年三月
財団法人 小中農教俱楽部」
隠居所・内覧
外観を見た後は内覧へ。

「公開日」の札と、
引き戸が少し開いているのに
何故かホッとする僕たち(笑)

入場券には、
田中正造さん自身が
「一番気に入っている」
と話したとされる
晩年の写真が使用されています。

隠居所1階。
ここでガイドの女性が、
僕たちを案内してくださる事になり、
最初に向かったのは2階です。

案内では、
「二階は床の間のある座敷を含めて
五部屋に間仕切る。」
このように記されていた場所です。

田中正造の紙芝居。
この10枚の絵を見ただけで、
ストーリーが分かるほど
僕の頭には田中正造の生涯が
こびりついています(笑)

田中正造の紹介。
蓑笠姿の正造さんの下には、
「私利私欲にとらわれず、
天地と共に
万物への「愛」の精神に
徹して生きようとした」
このように書かれていて、
短い言葉ですが、
これが田中正造という方の全てでしょう!

足尾銅山全図。

正造さんの書。
「辛酸亦佳境
丁未九月 正造」
明治四十年(1907)の書で、
意味としては、
「とても辛い事があった先には
充実した楽しい未来が待っている」
そんな意味でしょうか?
どんな逆境にも正面から向き合った
正造さんにぴったりの言葉ですね。

墓石の拓本と墓所計画図。
計画図を拡大してみます。

こんな貴重なものが残されていたとは、
正直、驚きました。

こちらが旧宅訪問前に参拝した墓所で、
覆屋の「妻入」と「平入」の違いはあれど
外観や周辺は計画図とほぼ同じですね!
こうして改めてお墓を見ると、
当時建立した方々の熱意が、
一層感じられます。
そして、
ここ二階の窓からは、
その墓所も見えているのです。

障子窓からの墓所、
緑が映えて、
なんだか「一服の絵」みたいですね!

窓の側から墓所を俯瞰。
覆屋の屋根が見えていますので、
高いところからですが(笑)
改めて参拝。
ここまでで2階散策は終了し1階へ。

「桜石」
田中正造が亡くなるまで持っていた
石ころ3個のうち1個は、
この「桜石」だったそうです・・・

渡良瀬川の桜石色々。

「本日休業」の札。
なんと、これも遺品なんですね!

井戸跡。

「田中正造年表」

直訴状。

「直訴状のあらまし」
これが実にわかり易いので、
全文書き出してみます。
「つつしんで申し上げます。
私が法を守らずに直訴をするのは、
がまん出来ないことがあるからです。
近ごろ、
足尾銅山のしごとが盛んになるにつれて、
渡良瀬川の水源が荒れ、
鉱毒が川に流れこんで、
魚が死に田畑や人間に害をあたえています。
私は衆議院議員として、
第二回議会で、この問題をとり上げ、
十年たちましたが、
政府や地方の役人は解決しようとしません。
それどころか、
保護をのぞむ人びとを捕えて、
投獄するありさまです。
国の収入も減り、
地方での生活が苦しくなっています。
立派な天皇のすぐ近くで、
数十万の国民が泣いているのは、
政府が責任をはたしていないためです。
どうか、政府に命じて
一、水源をきれいにし
二、川をもとのようになおし
三、毒土を除き
四、沿岸の産業を生き返らせ
五、おとろえた町村を回復させ
六、鉱業を停止し、
毒を止めるのに力をつくさせて下さい。
もし、このままにしておきますと、
考えがつかないような不幸が
おきるかもしれません。
私は六十一歳で、
残りの命も少ししかありません。
どうか、
この私の命がけの申し出を
おききいれ下さいますように
お願いします。」
幸徳秋水が考案した文章だそうですが、
ここに田中正造の
自分の身がどうなっても構わないから
苦しむ民衆を救ってほしいという
究極の「無私」が、
ここに表現されています・・・。

「栃木県指定史跡
田中正造旧宅の現状と
名称変更について」
これは、
ガイドさんからもお聞きした事で、
道路拡幅工事にあたり調査の上、
建物全体を北に移動し、
名称も少し変わっています。
そのために綺麗に復元された部分も多く、
田中正造旧宅にとって、
道路拡幅工事は、
プラスになったと言えるでしょう。
(続く)