東大寺・行基堂(奈良市)

 

行基菩薩

生きながらにして、

「菩薩」と呼ばれた行基ぎょうき

その行基の足跡を辿る旅、

第一弾は、東大寺の行基堂です。

お堂の前にある

行基菩薩についての案内を書き出すと

次のようになります。

「行基菩薩(668~749)

行基は、和泉国大島郡

(現在の大阪府堺市)で生まれ、

十五歳の頃出家し道昭の弟子となった。

救済活動や治水・架橋などの

社会的事業を盛んに行ったが、

国から活動を制約された時期もあった。

しかし聖武天皇により

「盧舎那大仏造顕の詔」が出され

その事業の「勧進」役に起用されると、

弟子を伴って勧進活動に奔走したという。

745年(天平十七年)には

その功により大僧正の位を贈られたが、

大仏の完成を願いつつ

平城京の喜光寺(菅原寺)で亡くなった。

奈良県生駒市の竹林寺に墓があり

墓誌銘が知られている。

「文殊菩薩の化身」として、

聖武天皇・菩提僊那ぼだいせんな・良弁僧正とともに

東大寺創建の四聖の一人に数えられる。」

行基同様、一芸に秀でた人は、

多岐に渡ってその才能を発揮出来るもの。

戦国時代の武将でも同じです。

天才、織田信長の

独創的な安土城築城は別格としても

関ケ原の戦い後、

石田三成を捕まえた田中吉政や、

佐賀藩の成富兵庫茂安など

戦国時代は

勇猛果敢に戦った武将が、

平和な江戸時代になり、

治水や町づくりなどで活躍した例は、

かなりあります。

一般民衆を

仏の「心」だけで救うのではなく、

民の生活に密着した「物」を整備して、

具体的な救済をした

行基の比類なき功績を思う時、

「問題解決」というものは、

精神面と物質面とを、バランス良く、

多面的に行うことが肝要だと

改めて思う次第です・・・。

行基堂

行基堂が建つのは、

大仏殿の東側、

猫段を登りきった場所です。

国宝となっている巨大な鐘楼

左奥に行基堂は見えています。

行基堂。

右側は冒頭に抜粋した

行基菩薩の説明です。

左側には行基堂自体の案内があり、

これを書き出すと次のようになります。

「行基堂・江戸時代

このお堂は、

もと俊乗房重源上人坐像が

安置されていたといわれている。

方一間、円柱、本瓦葺で

頂上に鉄の露盤と宝珠をのせ、

宝形屋根を形づくっている。

正面に向拝をつけ、

角柱また正面と向拝に蟇股をすえ、

江戸初期の建物と見られる。

内部には

寄棟造り・唐様の厨子を安置して、

竹林寺の旧像(現在唐招提寺移安)を

模して造られた

行基菩薩坐像が祀られている。

この像は当初公慶上人によって

造立が始められたが、

未完成のまま中止されていたのを

弟子の公俊が遺志を継ぎ、

享保十三年(1728)四月に

即念法師と仏師賢慶に命じて

造らせたものである。

賢慶は大仏殿の脇侍菩薩を制作した

東大寺仏師として知られる。」

なんか、

俊乗房重源上人坐像の行き先が

めっちゃ気になりました。

鎌倉時代、

大仏と大仏殿を復興した

貴重な人物なので

それなりの場所に安置されているはずと

思っていたところ、

すぐ目の前の「俊乗堂」の中に、

国宝として安置されているとの事。

安心した~(笑)

正面。

土足厳禁の立て札とスリッパ。

これって、

堂内を覗いてOKのサインですね!

写真撮影は禁止ですが、

僕たちは四角い小さな窓から

行基菩薩坐像のご尊顔、

しっかりと拝見させていただきました。

行基堂の右側に建つ五輪塔。

どなたのものかは分かりませんが、

ここに来られた事に感謝して参拝。

行基堂の左側に建つ水子地蔵。

念仏堂

行基堂向かって

右側に建つのが、念仏堂です。

念仏堂。

案内を抜粋すると

「もとは地蔵堂と言われ、

鎌倉時代の建物であるが、

屋根は江戸時代に

改修されたものという。

本尊、地蔵菩薩は、

仏師康清が嘉禎三年(1237)に

造仏したもので、

重要文化財に指定されている。」

このようになります。

参拝。

俊乗堂

行基堂、鐘楼、念仏堂と

同じ境内に建つのが俊乗堂です。

俊乗堂。

案内を抜粋すると

次のようになります。

「この俊乗堂は、大仏殿江戸再興の

大勧進公慶上人が、

鎌倉復興の大勧進、

重源上人の遺徳を讃えて建立されたもので、

堂内中央には

国宝「重源上人坐像」が安置されている。

俊乗房重源は、

保安二年(1121)京都に生まれ、

十三歳で醍醐寺に入って

密教を学び、仁安二年(1167)

入宋して翌年帰国。

治承四年(1180)

平重衡による南都焼討で

伽藍の殆どが焼失したが、

六十歳で造東大寺司の

大勧進に任ぜられた。

重源は十数年の歳月をかけて

東大寺の再興を成し遂げられた。

再興にあたって、大仏様だいぶつようとよぶ

宋風建築様式を取り入れ、

再建の功により大和尚だいかしょうの号を受け、

建永元年(1206)

八十六歳で入滅された。」

ここで書かれた、

「宋風建築様式」の大仏殿の模型が

こちらです。

改めて重源さんの凄さが、

よく分かりますね!

 

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