天寧寺・萱野権兵衛の墓(前編)

 

会津と福岡県との繋がり

天寧寺には、

戊辰戦争の責任を

一身に背負って処刑(自刃)された

萱野長修(ながはる)

通称、権兵衛(ごんのひょうえ)と

次男、長正親子のお墓があります。

父の罪人としての死で、

郡長正と改姓した次男は、

今の福岡県豊前市に留学し、

そこで切腹を遂げています・・・

お墓は、福岡にもあり、

今でも毎年法要が営まれているようで、

会津と僕たちの地元福岡に

こんな繋がりがあったとは、

何か不思議なご縁を感じています。

案内板

会津坂下町の心清水八幡神社参拝後、

再び会津若松市内へと向かいます。

6月末近いというのに、

冠雪した山々、

福岡では見られない景色に

思わず車を停めて眺めて撮影。

そして、走ること30分プラス

迷うこと10分(笑)で、

天寧寺の駐車場に到着。

まずは案内へ。

かなり年季が入っていますが、

大方の情報は掴めます。

「萱野権兵衛父子の墓」

「父権兵衛は、明治戊辰戦争の時、

会津藩の国家老で事実上の責任者として

激務にあたり、

その後敗戦処理に際しては、

城明け渡し、

藩主父子の助命嘆願などに力を尽くし、

自ら進んでその責任をとり自害した。

子郡長正は、権兵衛の次男で

明治3年小笠原藩(福岡県)の

育徳館に留学し教育を受けた。

ある日長正は郷愁を覚え母へ手紙を書いた。

後に届いた母からの戒めの手紙を落として、

小笠原藩士の子弟に

大衆の面前でののしられた。

長正は会津武士の面目を保つため

切腹して屈辱にこたえた。

ときに16歳であった。」

郡長正の経緯が事実ならば、

第二次長州征伐において、

小倉戦争で負けて長州に恭順し

大減封された小倉藩士は、

その後の戊辰戦争で朝敵の汚名を着た

会津藩士を「自分たちより下」と見て、

虐めることで、

自らの存在価値を見出したのかも

知れません。

また、他の資料では、

逆に郡長正の方が、

小倉城を捨てて逃げた小笠原藩士を

侮辱し、それを諭され、

自刃した説もあります。

いずれにしても切腹して、

会津藩士としての

誇りを保ったと考えるのは、

間違いではないでしょう。

そして、

もう一つの看板にも注目。

「クマに注意!!」

もう見慣れたというか、

見飽きている自分がいます(笑)

本堂

お墓参りの前に本堂へ。

真上から見たら

バームクーヘンに見えるような手水鉢。

本堂にて参拝。

鬼瓦の菊水紋。

今回の旅で菊水紋との出会いは、

中畑陣屋法界寺に続き3回目。

出会う頻度、多過ぎでしょう(笑)

この菊水紋、

萱野権兵衛の墓に行く途中、

石碑に刻まれた

次の文章で謎は解けました。

「ここ萬松山・天寧寺は、

今より五百八十二年前に、

南朝の忠臣楠木正成の孫である

傑堂和尚によって建立された名刹である。」

だから菊水紋なんですね!

豊津南高梅

ここからしばらくは緩い坂道が続きます。

やはり天寧寺の「推し」は近藤勇の墓。

でも僕たちの「推し」は権兵衛さん(笑)

お地蔵様にご挨拶してスタート。

左に「郡長正」、

右に「萱野権兵衛」の墓案内。

少し行くと左に見えてくるのが

こちらの梅の木です。

標柱に注目!

「贈 福岡県立 豊津高等学校」

「豊津南高梅」と記されていて、

福岡から来た僕たちのテンションは、

爆上げです(笑)

豊津高等学校の前身は案内にあった、

小笠原藩の育徳館で、

現在は豊津高等学校から

育徳館高等学校へと改名し、

「育徳館」の名が復活しています。

たわわに実った南高梅。

郡長正は、

今これを見て何を思うのか・・

(続く)

 

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