天澤寺(鶴岡市)本堂
ダメ元でも・・
早朝、福岡空港から仙台空港へ、
そこから車で日本列島を横断し、
山形県酒田市の南州神社を参拝。
その後、鶴岡市へ移動し、
大督寺の酒井家墓所、
本住寺の加藤忠広の墓や
鶴ヶ岡城などを巡り、
この日の最終目的地、
天澤寺到着は夕方の17時半近く。
拝観時間は過ぎているとは思いながらも
運よくお墓参りが出来ればラッキーと
とにかく行ってみたのですが、
願望は叶い、何かと収穫の多い
訪問となったので、
「ダメ元」でも行ってみたのは、
大正解でした(笑)
駐車場にて
鶴ヶ岡城では土砂降りだった雨も
天澤寺に着くと、
幸いにもあがっていました。
忠広さん、
歓迎してくれたのかな?(笑)
広い駐車場には僕たちの車だけ。
案内の上部に表示された
丸岡城(陣屋的な規模)が
忠広さんの終の棲家で、
お隣の天澤寺には父、加藤清正の墓と
熊本からついて来た家臣達の墓があり、
僕たちの天澤寺訪問は、
このお墓参りがメインです。
案内。
「丸岡城跡・加藤清正公
墓碑駐車場
「世中ぞ 道分行や
毛頭川 うき名を下す 青がや小舟」
忠廣公歌集「塵躰和歌集」巻首詩
寛永九年(1932)突如の改易となった
加藤肥後守清正公の二代目忠廣公は、
世の無情に無念といきどおりをかかえ、
配流先の出羽庄内藩領内丸岡へと旅立った。
羽州街道を経て大石田から
青がや屋根のついた小舟で清川へと下り
謫居地に着いたのです。」
熊本から遠く離れた山形県で、
加藤家の家紋、
蛇目紋と桔梗紋を見られるなんて、
なんか感慨深いものがありますね・・
参道
実際には、
駐車場から本堂まではすぐ近く、
即参拝したのですが、
参道入口からお参りした体で書きます(笑)
杉並木の参道。
「山形県指定史跡
丸岡城跡・加藤清正公墓碑 案内図」
「ここ丸岡は、少ないと内陸を結ぶ
旧六十里街道に対する要地であり、
鎌倉時代より庄内を支配していた
武藤氏の支城がおかれていた。
寛永九年(1632)
肥後熊本五十四万石の太守加藤忠広公は、
徳川幕府によりとがめを受け
本領を没収され、出羽庄内藩酒井家に
一万石の捨て扶持で、
母、正応院とともに
身柄を預けられ二十数年間、
丸岡の陣屋でわびしい生涯を送った。
丸岡城跡に隣接する
天澤寺の本堂裏に五輪塔があり、
昭和二十四年の発掘調査で、
地中から肥前弓野窯の遺骨壺が発見された。
また、境内には
忠広公の家臣らの墓もある。」
忠広さんが父の遺灰を
熊本から遺骨壺に入れて持ってきて、
墓(五輪塔)を建てたそうで、
裏付けが取れているんですね・・
参道入口付近の六地蔵に参拝。
六地蔵横のお墓。
「山形県指定史跡
上ノ山城主里見越後守主従の墓地
年代 桃山時代末期
指定年 平成元年」
「上ノ山城主里見民部の子権兵衛が、
山形城主最上義光の嫡男
義康の小姓であったとき、
義光は下山添一里塚の地で子義康を暗殺し、
権兵衛にも切腹を命じた。
権兵衛の祖父里見越後守は、
義光の処置に憤り民部と権兵衛それに
家臣を連れて山ノ上城を出奔した。
義光に追われ浪々の末、
尾浦(大山)城主下治右衛門に預けられ、
その後、丸岡に移された。
慶長十九年一月最上義光の遺言によって、
里見越後守、民部父子主従二十三名は、
この地で切腹させられ果てたのである。」
最上義光は、
長男義康を秀吉の人質に、
次男家親を家康の人質に出していて、
義康の暗殺は、
家康お気に入りの次男に
家督を継がせるための
工作だったとも言われていますが、
真相はどうなんでしょうか・・
無念の死を遂げた御霊に参拝。
参道の細さが、
歴史の長さを物語っています。
山門。
「庄内十三佛第七番薬師如来」
このような表示がありますので、
ご本尊は薬師如来なのでしょう。
本堂。
本堂右手の地蔵尊に参拝。
「シートベルト地蔵さん」には、
本物のシートベルトが!(笑)
ガラス扉の前で参拝。
蛇目と桔梗紋の暖簾、
テンション上がりますな〜!
こちらもさらにいい味出してます(笑)
(続く)