会津戊辰戦争終結の地

 

英断

母成峠で板垣退助と戦った

会津側の指揮官、大鳥圭介は、

後の箱館戦争で降伏した時、

「死のうと思えば いつでも死ねる

今は降伏と洒落込もうではないか」

こんな言葉を残しています。

まさに名言でしょう・・

籠城戦で追い詰められた会津藩も

下した決断は「降伏」。

これはまさに松平容保公の「英断」で、

「城を枕に全員討死」などと、

ホントやらなくて良かったと思います。

「カッコ悪い」とか、

「名誉」なんて考えるから

未来の可能性が消えるのですからね。

降伏式

会津藩が降伏式に臨んだのは、

現在の「北出丸大通り」という

鶴ヶ城のすぐ北の路上です。

Googleマップで見ると

お城とはこんな位置関係で、

家老屋敷が立ち並ぶ場所でもあります。

この道に緋毛氈が敷かれ、

降伏式が行われたようです。

(訪問時に撮影し忘れたので、

この画像はGoogleから拝借)

そしてここから

後ろを振り返ると・・

鶴ヶ城の天守が見えています!

今は電線だらけですが(笑)、

当時はくっきりと

見えていたのでしょう・・・

北出丸大通り周辺の案内。

「会津戊辰戦争終結の地

泣血氈きゅうけつせんの誓い」

「明治元年(1868)

九月二十二日午前十時、

会津藩は鶴ヶ城の北出丸に「降参」と

大きく書かれた白旗を掲げました。

そして正午に、追手門に通じるここ

甲賀町通りの路上で降伏式が行われました。

地面には、家老内藤介右衛門邸にあった

四・五メートル四方の緋毛氈

(赤色の上等な敷物)が敷かれ、

その上に会津藩主の

松平容保・喜徳父子が立ち、

西軍の軍監である

中村半次郎らに嘆願書を渡しました。

一か月に及び必死に戦い続けた

会津藩の籠城戦は、

正式に幕を降ろしたのでした。

式が終わると、会津藩士たちは

この日の無念を忘れぬようにと、

敷かれていた緋毛氈を次々と切り取り、

その小片を持ち帰ったのでした。

のちにこの毛氈は「泣血氈」

と呼ばれるようになり、

この日のできごとを語り継ぐ

重要な「証」となりました。」

「明日よりは いづくの誰が

ながむらん なれし御城に残す月影

開城前夜 山本八重子 詠」

これを読むと、

後に、薩長主導の明治政府の元で、

「賊軍」の汚名を着せられた

多くの会津藩士や女性達、

そしてその子孫の方々が、

差別をもろともせずに

大活躍した原動力が、

この敗戦であったのかと

思えてしまうほどですね。

会津魂・・心から敬服します・・

内藤邸跡

緋毛氈をズタズタにされ、

返して貰えなかった(笑)

内藤さんの邸宅跡へ。

ここには書かれていませんが、

この一家も幼い子供も含め

多くが自刃しています・・・

内藤邸跡の敷地に残る「白露庭」。

以前は池があったのかも?

美しく剪定された松。

西郷頼母邸跡

次に、

内藤邸と北出丸大通りを挟んだ

向かい側の西郷頼母邸跡へ。

ここで西郷頼母の妻他、

幼子も含め21人が自刃しています・・

「戊辰殉節 西郷邸阯」

謹書は松平容保の七男、保男もりお氏で、

Wikipediaによると

この方巡洋戦艦「伊吹」の

最後の艦長だったのです。

軍縮条約で伊吹解体後、

砲塔の一つは、

豊予要塞の丹賀砲台に移され、

1942年に暴発して失われていますが、

その跡地「丹賀砲台園地」に

僕たちは二度も訪問しているのですよ!

ここでも知らず知らずのうちに、

会津との繋がりが出来ていたのかな?

慰霊碑でしょうか・・

花が供えられています。

国難に殉じた二十一人の事が書かれ、

その後に、

西郷頼母の妻、千重子の辞世。

「なよ竹の 風にまかする

身ながらも たわまぬ節の

ありとこそきけ」が

刻まれています。

萱野権兵衛邸跡

西郷頼母邸の東隣には、

戊辰戦争の責任を背負って切腹した

萱野権兵衛邸があります。

と言っても今は何もないのですが・・

記念碑的に立つ案内板。

権兵衛さんと、

留学先の福岡県で切腹した

息子、郡長正のことが

紹介されています。

今は駐車場です・・

権兵衛さんと郡長正の魂は、

今もここで会津を

見守ってくれているかもですね!

 

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