徳島縣護國神社(徳島市)後編
靖國神社の引き寄せ
靖國神社の大鳥居近くの
「さくら陶板」入口に建つ
「出征を見送る家族の像」。
この銅像が、
徳島県と深い繋がりがある事を知ったのは、
今年(令和6年)の1月のことです。
こちらが靖國神社の
「出征を見送る家族の像」で、
案内には、
「徳島県遺族会からの奉納で、
銅像のオリジナルは、
徳島縣護國神社境内に
建立されています」
このような内容が書かれています。
まだ未訪問の徳島縣護國神社が、
大いに気になっていましたが、
まさか、
この日からわずか2ヶ月後に
オリジナルに出会えるとは
思っても見ませんでした。
妻が、
「屋島の佐藤継信の墓に参りたい!」
そう言わなければ、
こんなに早く参拝することは
無かったでしょう。
靖國神社さん、
源義経の身代わりとなって
討死した佐藤継信さん、
ここに引き寄せてくれて
心から感謝しています!
大國神社
本殿参拝後、
護國神社よりも先に
この地に鎮座していた
大國神社の参拝へ。
エントランス。
左が大國神社、右が護国神社です。
高い屋根が特徴の手水舎。
大きな緑色片岩(多分)の一枚岩で、
素晴らしい手水鉢ですね。
偶然でしょうが椿の花が
一輪浮かんでいるのが、
また素敵じゃないですか!
妻が「カッコいい」と言ったので
龍神様を撮影(笑)
「大國神社略記」
案内を書き出すと
以下になります。
「御祭神 大國主大神
当社は三好郡池田町出身の
川崎阿佐恵氏が此地に昭和五十三年
月映神座(つきばえかみくら)を奉斎し
その後昭和五十六年三月二十六日
出雲大社より御神像を拝戴して
大國神社を創建す」
ここに書かれた川崎阿佐恵氏が、
現在の徳島縣護國神社の土地を
寄進された方で、
後から知ったのですが、
社務所前には顕彰碑もあったようです。
この人の存在無くして、
僕たちはここに参拝は
できていないのです・・・
簡単に「篤志家」などというには
言葉が軽過ぎますので、
「徳島縣護國神社の恩人」
「ご英霊達の心の拠り所」
とでもしておきましょう。
拝殿にて参拝。
「打ち出の小槌」に心もほっこり(笑)
拝殿から本殿へ。
塔というか蔵というか、
存在感抜群の本殿に圧倒されます。
出雲大社より拝戴した御神像が
安置されているであろう本殿に参拝。
拝殿右側の清祓石。
清祓神事の作法について。
「厄(災)を吹きかけたものを壊す」という
神社よくで行われる
祓神事と主旨は同じですね。
月映神座
次にご神域発祥の地であり
護國神社に於いて、
最も神聖かつ重要な場所、
月映神座へと向かいます。
左奥の小さな鳥居の先が、
月映神座です。
お邪魔します(笑)
神様と川崎阿佐恵氏への
感謝を思い参拝。
右側には「大國神社発祥の所」の
石碑がありますが、
「徳島縣護國神社発祥の所」でも
あるのです・・・
本殿裏の磐座にも参拝。
戦没者を見送った家族像
月映神座の先に
冒頭に書いた銅像はあります。
遠くに見えていますね!
芝生が植えられ
公園のように整備された銅像前広場。
遂にご対面。
徳島城跡の中央公園に
建っていた頃の案内板が、
そのまま配置されています。
「戦没者を見送った家族像」
靖國神社では、
「出征を見送る家族の像」と
名付けられていましたが、
デザインは全く同じです。
文言を書き出すと以下になります。
「嗚呼 君は防人として旅立つのか
齢を重ねた父母
愛しき妻
そして我が子たち
皆が君の帰選を待ちつつも
先の大戦においては約八百万人が出征し
うち約二百四十万人が帰らぬ人となった
約百九十万人が独身のまま、
約五十万人が妻と子どもを残して、
戦没したとされる
誰もが、家法を守り、地域を守り
かけがえのない存在であったのに
命により戦地に起き、望郷の願い叶わず
戦場の露と満えた
嗚呼 息子よ 夫よ 父よ 兄弟よ
天界の君を偲び、
君が遺してくれたものを受け継ぎ、
今も家族は故郷とともにあります」
これは・・・
心に響く名文ですね・・・
改めて、
今の日本を遺してくださった
ご英霊の方々に感謝しかありません・・
父親の握り拳に
深い思いを感じます・・
改めて靖國神社の銅像です。
泣きそうになるほど胸を打つ姿、
これが、
全国47都道府県の各県の土で造られた
「さくら陶板」への表玄関に
建立されていることは、
徳島県の方々の誇りでしょう・・・
御朱印
最後に社務所にて
御朱印を授与いただきました。
達筆ですね!
しかも
神社のシールまでいただき、
素晴らしい思い出となっています。