僧清虚の墓(北九州市門司区)
知らなかったお墓
僧清虚は、
江戸時代後期の天保年間、
関門海峡の山に火焚場を造り、
航行する船の安全を願い
松明をともし続けた人です。
部埼灯台下の海岸に建つ
僧清虚の像。
僕は旅をする前、
この像の存在は知っていましたが、
お墓については
全く意識にありませんでした。
ところが、あったのです(笑)
見つけたのはいつものように妻。
妻が僧清虚の像を見た時、
「あ~さっきお墓の案内があったよ!」
そう雄叫びをあげました(笑)
ということで、
部埼灯台の帰り道にお参りする事に。
僧清虚の墓へ
ちょと行き過ぎて、
また引き返して案内を確認。
走っている車から、
これを見落とさない妻の
「お墓アンテナ」
どんだけ高性能なのか(笑)
ここからは徒歩。
墓地が見えてきました。
到着。
案内を要約すると
「部崎は古くから急流と浅瀬の多い
海の難所であった。
天保九年(1838)
大分国東の太兵衛が
誤って殺した友のめい福を祈るため
出家し、名を清虚と改め諸国を巡った。
この沖で難破船の多いことを聞き、
庵を建て毎夜薪を焚いて
船の道しるべとした。
始めは村人から軽蔑されたが、
のちに、この話を伝え聞いた小倉藩主や
下関の船問屋たちも彼の行いに感動し
援助するようになった。
清虚が没するまで
13年間火は焚き続けられ、
その後、
明治5年に部埼灯台が出来るまで、
地元の村人に受け継がれた。」
このようになります。
信念を持って善い行いを続ければ、
最初は馬鹿になれていても
いつしか周囲に認められ
多くの協力が得られるという
「偉人ストーリー」の
見本のような人です。
お墓を探したのですが、
どれが僧清虚の墓かわからず、
昭和14年に建てられた
頌徳碑に参拝しました。
後日お墓がわかりました・・・
頌徳碑のすぐ前の玉垣に囲まれた中に
お墓があったのです。
僕たちはずっと清虚さんに
お尻を向けていたんですね(汗)
まあ、同じ空間にいた事で、
清虚さんへの
気持ちは伝わったはず?(笑)
お墓からの帰り道、
赤とんぼが飛んできて、
葉っぱに止まりました。
清虚さんが見送ってれたのか、
妻のおばあちゃんが来たのか・・・
心安らぐ一瞬でした。