筑波海軍航空隊記念館・企画展示

 

妻、目覚める(笑)

日本兵1万人以上が玉砕した

ペリリュー島の戦い。

妻がその戦いの歴史を知ったのが、

筑波海軍航空隊記念館再訪の

3ヶ月ほど前、

令和7年9月頃の事。

それからほどなくして、

ペリリュー島の戦いを描いたアニメ映画、

「ペリリュー楽園のゲルニカ」が、

12月5日に封切られる事を知り、

妻が興味を持った時期と偶然重なるという

タイミングの良さに驚いていた所、

12月13日に訪問した

筑波海軍航空隊記念館では、

ペリリュー島守備隊の主力で、

茨城県民を中心に編成された

水戸歩兵第二連隊の企画展が

開催されていて、

これまた、ペリリュー島の戦いを

さらに深掘りする事に。

天皇皇后両陛下(現上皇上皇后陛下)の

ペリリュー島訪問から

10年という節目の年に

妻が突如として(笑)

ペリリュー島の戦いに目覚め、

さらにタイミング良く、

筑波海軍航空隊記念館を訪問出来たのは、

神様、お地蔵様、元三大師様、

御英霊の皆様、富士山、ピカチュウなど、

妻のバックアップ軍団(笑)のお陰?

に違いありません。

入場

8ヶ月前に「下見」をしているので、

僕たちの動きは超スムーズです(笑)

駐車場から旧司令部庁舎の玄関前を通り、

号令台などを散策後、受付へと向かいます。

入場券。

こんな方もお出迎え。

そしてメインは・・

やはり、こちらでしょう!

企画展示 水戸歩兵第二連隊

まずはパンフレットから。

旧司令庁舎の2階では、

アニメ映画

「ペリリュー楽園のゲルニカ」の

パネル展もあっていますが、

それは後ほどのお楽しみ(笑)

水戸第二連隊の

企画展が行われているのは、

受付のすぐ隣です。

いつも見落としばかりの僕でも

これならば、

ちゃんと導かれますね(笑)

ここからはパネルの紹介を

全文または抜粋にて、

書き出していきます。

「水戸歩兵第二連隊」

「ペリリュー島で主力として戦った、

中川州男なかがわくにお大佐率いる水戸歩兵第二連隊。

ここでは、歩兵第二連隊の歴史と

茨城県内の関連慰霊碑や戦友会について、

パネルでご紹介します。」

中川大佐の生まれは熊本県で、

お墓も熊本市内にあり、

僕たちの住む福岡と近いので、

やはり

お参りするしかありませんね・・

「水戸歩兵第二連隊史」

「水戸歩兵第二連隊は、

1874(明治7)年、

軍旗を授与され

千葉県佐倉に創設されました。

西南の役、日清・日露戦争に

出征した

「伝統ある郷土部隊」です。

1908(明治41)年9月

新設された

第十四師団の隷下部隊となり、

翌年水戸に移駐しました。

その後シベリア出兵、

満州や中国戦線に参加し、

保定会戦では勝利をおさめ、

軍司令部から感状を授与されるなど

奮闘を重ねます。

アジア太平洋戦争が開戦し、

戦局が傾くと、

急遽満州から南方へ転用され、

1944(昭和19)年4月24日

太平洋の要塞・

ペリリュー島の守備につきます。

ペリリュー地区隊長・

中川州男大佐(歩兵第二連隊長)は

一斉突撃を厳に戒め、

最後の一兵になるまで戦う

「徹底抗戦」を取りました。

 

ペリリュー守備隊は

島内要域に蟻の巣のように

縦横無尽に堀りめぐらした洞窟陣地を

利用したゲリラ戦法により、

頑固な抵抗戦を繰り広げました。

そして米軍上陸から74日経った

1944(昭和19)年11月24日、

中川大佐は軍旗奉焼のあと、

パラオ本島の師団司令部に

決別の電報を送り、自決。

 

歩兵第二連隊70年の歴史に

幕を閉じました。」

創設された明治7年といえば、

佐賀の乱(佐賀戦争)の年ですね・・

この時代背景を知れば、

外国侵略への防備に加え、

内政の安定という難題をも抱えた中、

荒波の海の上を乗り切るが如く、

国の舵取りをする大久保利通らの気持ち、

ちょっぴり理解出来る気がします・・

「水戸歩兵第二連隊概史」

「水戸第二連隊兵営」

「水戸歩兵第二連隊が

水戸に兵営を移駐したのは

1909(明治42)年でした。

日清・日露戦争後、軍備拡大により

師団が増設され、各地では活発な軍の

誘致運動が展開されました。

 

茨城県内でも地域経済の発展を期待した

市民の誘致運動が起こり、

水戸に聨隊の設置が決まりました。

軍用地は市街中心部から

北西3Km離れた農村に整備され、

ここに歩兵第二連隊兵営、

工兵第十四大隊兵営、練兵場、

衛戍えいじゅ病院、射撃場

などが配置されました。

戦後、これらの軍用地は主に公共用地に

転用されました。

歩兵第二連隊兵営の跡地は、

現在の茨城大学の敷地となり、

旧制水戸高等学校や茨木師範学校などを

統合した文理学部・教育学部・

大学本部が置かれました。」

「水戸歩兵第二連隊と明治の水戸市

1910年(明治43年)」

連隊があったのは、

水戸偕楽園や茨城縣護國神社に

近い場所ですね。

陸軍兵士の持ち物。

「ペリリュー島の激戦」

「南太平洋に浮かぶ島々、パラオ諸島。

その南方に位置するペリリュー島では、

1944(昭和19年)9月15日から

70日以上に及ぶ

日米の激戦が繰り広げられました。

日本軍守備隊人員は

歩兵第二連隊と歩兵十五連隊(一大隊欠)、

海軍の西カロリン航空隊

(臨時編成の陸戦隊)を

主力とする約1万名、

対する米軍は第一海兵師団、

第八十一海兵師団を主力とする

約4万人でした。

ここでは、太平洋戦争研究会代表。

平塚柾緒氏所蔵の

1947年までのペリリュー島の写真

(米国防省所蔵)とともに

ペリリュー島の戦いについて紹介します。」

「水戸歩兵第二連隊 日章旗」

「ペリリューの戦い

作戦推移・戦局経過概要」

「当時の戦況」

「1943(昭和18)年9月、

本土防衛のための

「絶対国防圏」

(千島・小笠原・内南洋・

西部ニューギニア、スンダ、ビルマ)

が設定され、

その防備に充当するため、

日本や中国大陸から

戦略兵団を抽出し

絶対国防圏要域へ

派遣することとなった。

 

歩兵第二連隊が隷属する第十四師団は

当初西部ニューギニアに

派遣される予定であった。

 

しかし、1944(昭和19)年1月より

米機動部隊がマーシャル諸島に来襲、

2月初めにはルオット、

クェゼリンの守備隊が全滅した。

 

これにより、

大本営は中部太平洋方面に対して

戦備の急遽強化をはかり、

第十四師団を北部マリアナに、

第二十九師団を南部マリアナに

転用することにした。」

 

ところが、同年2月17日、18に

日本海軍最大の根拠地であるトラック島が、

同月23日に

絶対防衛圏内の要塞マリアナ諸島が

空襲を受け、

さらに翌月30日にパラオ諸島にも

米機動部隊が来襲した。

米機動部隊が絶対国防圏奥深く、

パラオ方面を急襲したことは

大本営にとってかなりの衝撃だった。

パラオはトラック島と並ぶ

日本海軍の太平洋における

重要な根拠地であり、

さらにパラオを失うことは

膨大な兵力を集結させているフィリピンが

直接危険にさらられることを意味する。

フィリピンを目指す連合軍にとっても、

進行コース上にはばかる

ペリリュー飛行場は最大の課題だった。

 

そこで同年4月3日、大本営は

先にマリアナ派遣を決定したばかりの

第十四師団を今度はパラオに

再転用することにしたのだった。」

 

パラオ諸島は200ほどの島々からなり、

面積は478㎢である。

1919(大正8)年、

日本の委任統治領となった。

日本は1922(大正11)年に

パラオ諸島のコロール島に

南洋庁を新設。

日本人を移住させ、

日本への「同化」政策を開始した。

ペリリュー島はパラオ諸島コロール島から

南へ約50kmにあり、

珊瑚礁に囲まれた孤島である。

島には1939(昭和14)年に

完成した飛行場があり、

東洋一の飛行場と呼ばれた。」

これを読むと、

アメリカの作戦に翻弄され、

意思決定を覆されるという、

負け戦特有の「対処療法」しか出来ない、

日本軍の悲哀を感じます。

主導権がなければ、

戦争とはこんなにも悲惨なのです・・・

「砲弾箱」

「富士裾野演習記念の榴弾」

「陣地構築と訓練

1944(昭和19)年4月〜9月」

「1944(昭和19)年4月26日

歩兵第二連隊はペリリュー島に上陸。

即日配備の命を受けた。

地区隊は上陸早々

陣地構築に取り掛かった。

 

隆起珊瑚礁でできた島には

至る所に自然の洞窟があり、

それらを拡張し、人や兵器が

隠れるよう構築が進められた。

 

しかし島の土地は

石灰岩質珊瑚礁でできており、

鉄筋コンクリートより硬く、

構築作業は容易ではなかった。

 

陣地構築は5月6月7月とつづいたが、

併行して訓練も厳しさを増していた。

 

7月に入ると、米軍による空襲が始まり、

8月にはさらに激化していった。」

 

9月6日米機動部隊が

パラオ諸島とヤップ島北東方面に進出、

翌日には艦砲射撃が始まった。

 

米軍の空襲は上陸を開始する

9月15日まで艦砲射撃とともに

衰えることなくつづけられ、

この事前砲爆撃により緑の

ジャングルに覆われていた島は

たちまち岩肌の露出した

裸山になってしまった。

 

また、滑走路は穴だらけになり、

ペリリュー飛行場は使用不能となった。

 

中川大佐は守備隊を

地区本部直轄、

南地区隊

西地区隊

北地区隊

の四地区隊に分け、

それぞれ歩兵一個大隊を中心に編成した。

 

8月4日、

「ペリリュー地区隊戦闘指導要綱」

が完成し、

すなわちそれは一斉突撃などを

厳に戒め、最後の一兵になるまで戦う

徹底抗戦であった。」

「海岸陣地から海をにらむ

日本軍の120ミリ砲」

「米軍の砲爆撃で緑のペリリュー島は、

醜い素顔を曝け出してしまった。

1944年9月」

日米両軍の兵力。

人数だけ見れば、

米軍は日本軍の4倍ですが、

それ以外に無数の艦艇や航空機、

弾薬など、

あらゆる兵器と人員を合わせれば、

もはや百倍どころか、

それ以上の戦力差があったと思います。

「米軍上陸時における

ペリリュー地区隊防御配備図」

「米軍の上陸

1944(昭和19)年9月15日」

「9月15日8時30分頃

米軍・第一海兵師団の第一陣が

西浜から上陸を開始した。

海岸から数キロ離れた

リーフの外に碇を降ろした

約30隻のIST(戦車揚陸艦)から

次々と海兵隊上陸部隊を

移乗したアムトラック(水陸用トラック)や

舟艇群が押し寄せ、

海岸線2kmほどのところで横体形をとると、

白波を蹴り立てて一斉に突進した。

陣地に潜み一発も撃たずに待機していた

西・南地区隊は

米軍を至近距離に引き寄せると

一斉に射撃を開始。

敵味方入り乱れての白兵戦となった。

この上陸開戦により、

米軍は1000名以上の死傷者を出し、

一時退去を余儀なくされるが、

同日9時30分頃より再び、

強襲上陸を試みた。

米軍は第一陣よりも数倍もの兵力を以て、

飛行場南西端への上陸を成功させる。

夕方には飛行場の南東端付近まで

進出することができた。

夜、中川大佐は「第一号反撃計画」に基づき、

決死斬り込み隊・戦車隊を編成し、

反撃に出るも不成功に終わった。」

「パラオ共和国全図」

「ペリリュー島玉砕戦」

「アンガウル島玉砕戦」

「日本軍の反撃で海岸に

釘付けになった海兵隊。

1944年9月15日」

「上陸に成功した、海兵工兵先遣大隊。

1944年9月16日。」

「日本軍の逆上陸作戦・北地区での戦闘

1944(昭和19)年

9月23日〜9月末」

「米軍上陸一週間が過ぎた9月22日

パラオ本島の集団司令部は

歩兵十五連隊第二大隊を中心とする

ペリリュー逆上陸部隊の派遣を決定した。

翌日、先遣部隊がパラオ本島を出発し、

北地区への逆上陸を成功させたものの、

続く大隊主力(約630名)は

50%近くの損害を出し、

作戦は失敗に終わる。

 

米軍は日本軍の逆上陸作戦を察知し、

急遽北部攻撃に転じ、

同月23日夕刻には

ガリキョク付近まで進出していた。

 

北地区の主力である

独立歩兵第三百四十六大隊は

島の北端の水戸山に布陣していたが、

同月27日には水戸山地下洞窟陣地以外の

大部分が米軍に占領された。

以後、北地区隊は

地下洞窟陣地を唯一の拠点をして

再三にわたって斬り込み攻撃を行うが

同月30日に北地区隊の

組織的な戦闘は途絶えた。」

「ペリリュー島の西浜にたどり着き、

内陸に進撃する海兵隊。」

】(写真説明無し)

進軍する米軍・・こんな写真です。

【下】

「日本軍のタコツボ陣地を水陸両用戦車が

火炎砲射攻撃を加えている。

1944年9月。」

「米軍、占領宣言・最後の攻防戦

ファイブシスターズ周囲戦

1944(昭和19)年

9月27日〜10月末」

「9月27日に米軍は

ペリリュー島の飛行場で

星条旗の掲揚式を行い、

「ペリリュー島占領」を声明した。

また、マイクとビラによる

投降勧告も開始された。

この頃、島の中央山岳地帯を除いては

すべて米軍が占領し、

約五個大隊の兵力を以て包囲網をしき、

総攻撃を開始した。

 

対する日本軍は生存者1500名ほどで、

実際の戦闘員は1000名内外であった。

中央山岳地帯での米軍と

中川大佐指揮下の主力は、

奪ってはまた奪い返すというまさに

一進一退の血みどろな闘いを

繰り返していたが、

増援のない日本軍にとってこの消耗戦は

明らかに不利であった。

 

10月半ばには水府山と東山が、

月末には南征山が米軍に占領された。

その間、米軍は占領した

ペリリュー飛行場を基地に空爆も開始し、

洞窟にたてこもって抵抗する

日本兵には火焔放射攻撃や

ガソリンを投入しての

焼き殺し攻撃も実施した。

火力に劣る日本軍の攻撃は、

もっぱら”肉攻切り込み”が中心の

近接戦であった。」

「米軍に占領されたペリリュー飛行場。

1944年10月」

「日本軍の洞窟を火炎砲射攻撃する

米軍の水陸両用戦車。」

「第2海兵飛行大隊のコルセア戦闘機が

「プラディ・ノース」尾根付近一帯に

ガソリンを撒き、燐光弾を灯火して

炎上させたところ

1944年10月」

「海兵隊員が遭遇した日本軍の洞窟陣地。

1944年10月。」

日米両軍の軍服と小銃、ヘルメット。

「日本陸軍 上衣」

「米陸軍 ジャケット」

「日本軍 ヘルメット」

「鉄製のヘルメットです」

「米陸軍 ヘルメット」

「日本のものと違い、頭を守るために

二重構造になっています。」

これには僕も妻も衝撃を受けました・・

兵士一人の命=教育訓練の成果と考え、

その膨大な訓練時間と費用をかけた兵士を

しっかりと守り抜く姿勢、

これぞ「戦争継続」への絶対条件でしょう。

命を大切にする云々のレベルの話ではなく、

兵士一人を養成するには、

時間とお金がかかる、

だからこそ「大切に扱う」という、

根本思想の話です。

日本軍の上層部にはこの考えが無く、

「兵士は消耗品」位の認識でしたから

負けるべくして負けたのでしょう・・

ヘルメット一つでもこの差、

全てに於いては・・

語るのも悲しいですね・・・

携帯燃料、医療品など。

「米海兵隊の偵察用軽飛行機「イナゴ」は、

低空で飛行、

日本軍洞窟陣地への砲撃を指示する。」

「移動する米海兵隊。

後方に見えるのは日本の海軍司令部の建物。

空爆と艦砲で瓦礫と化したが、

現在も姿を止めて残っている。」

「日本軍 玉砕「サクラ・サクラ」

1944(昭和19)年11月24日」

「11月に入り、

中川大佐が掌握している人員は

戦闘員が約350名、

重傷者が約130名の

500名足らずであった。

確保している領域も

大山と観測山の頂上付近のみで、

それも同月2日に観測山が陥ち、

大山も頂上付近の一部を残して占領された。

18日にはパラオ本島の集団司令官に、

最後の総突撃の許可を求める旨の

緊急電報を打つが、認められなかった。

 

11月22日午前7時

米軍は大山の斜面に掘られた

戦闘指揮所の洞窟めがけて攻撃を開始した。

一斉に断崖をよじ登る

米兵たちと肉薄したが、

日本軍に残された兵器は小銃のみであった。

同時刻頃、

中川大佐は戦況の切迫を憂慮し、

集団司令部に「至急電報」を発信。

玉砕報告の暗号電文であった。

歩二電第一七七号

十一月二十二日〇七・四〇発

ツウシンダンゼツノコリョ

ダイトナルヲモッテ

サイゴデンポウハ

サキノゴトクイタシタク

ショウチアイナリタサキ

一、グンキヲカンゼンニショウチタテマツリ

二、キヒミツショルイハ

○○イジョウナクショセリ

ミギノバアイ「サクラ」ヲ

レンソウスルニツキ

ホウコクアイナリタシ

 

2日後の24日午前10時30分、

集団参謀長宛に

ペリリュー守備隊決別の電文を送り、

同日16時に軍旗奉焼した後、

「サクラ・サクラ」の暗号電文を

集団司令部に連想した。

 

そして、

ペリリュー地区隊長中川州男大佐

(歩兵第二連隊)と

第十四師団派遣幕僚の村井権次郎少佐

(第十四師団司令部付)は

同日夜、戦闘指揮所で自決した。

 

両指揮官の自決後、

重症兵たちの自決がつづき、

生存者は遊撃隊を編成し、

最後の一斉斬り込みを行った。

 

11月27日午前7時、

米軍上陸より74日目に、

ペリリュー攻略部隊の米陸軍第332連隊長

ワトソン大佐が

「作戦終了」を報告し、

統一した戦闘を終えた。」

もう涙しかありませんね・・

以前読んだ本の中に、

「真っ暗闇の中で、

日本兵と白兵戦になったアメリカ兵が、

顔が見えない中、

「敵(日本兵)」と認識する決め手は、

「強烈な悪臭」だった」

と記されていました・・

何ヶ月もまともな風呂に入っていない

日本兵だったのです・・・

人として最低限の生活もなく、

飯も食えず、水も飲めず、

どうしてあんなにも

日本兵は頑強に抵抗できたのか?

無能な日本軍上層部が好んで使う

「精神力」などという

生やさしいものではなく

最先端兵器や科学技術を向こうに回し、

それを超える「覚悟」というものが、

根底にあった気がします。

「1944年7月31日

中川大佐が妻・光枝に宛てた最後の手紙」

「拝復6月22日付手紙落手仕り候

無事熊本の緒方様宅で

御暮らしの由何よりと存じ候

当方その後元気にて第一線勤務に従事。

将兵一同愉快に不自由無く

暮らし居り候故御放念被下候

敵の空襲も最近多少増加仕り候えども

大した事無く候

近々状況も切迫いたし候

手紙も舟の運航のため

余りつかないようになるとも

決して御心配なく御暮らし願上げ候

丁度東京行きの幸便有之候故御たのみ致し候

各位にもその後失礼致し候

よろしくお伝え願上げ候

高瀬も緒方様も道之さまも

御元気の事と存じ候

よろしく御願上げ候

先ずは要件のみ取り急ぎ早々

 

祈御健康

光枝殿

中川州男」

もはや言葉もありません・・・

日本軍三八歩兵銃など。

【上】

「生存兵その後

1944(昭和19)年11月末〜

1947(昭和22)年」

「米軍が「作戦終了」を報告した後も、

天山の「海軍豪」と呼ばれた洞窟には

約80名の西地区隊の生存兵がおり、

日本軍の玉砕を知らずにいた。

 

1944年12月末に米軍は

この日本兵の掃討戦を始め、

日本兵たちは数人ずつのグループに分散して

遊撃戦で対抗した。

 

この12月から翌年1月に行われた掃討戦は

規模こそ大きくないが

その後も散発的につづき、

日本兵の数はそのたびに減っていった。

 

1945(昭和20)年4月頃には、

その数は、40名にも満たなくなっていた。

この頃には島内は静まり返り、

生存者は7〜8人のグループに分かれ

ジャングルに潜んでいた。

 

彼らは日本軍が

再び島の奪還にやってくると信じ、

 

その日のために”再武装”に努めていた。

【下】

「1947年(昭和22年)4月22日投降

ー「彼ら」の終戦記念日ー」

「1946(昭和21)年

パラオ地区集団司令部が

本島より引き上げる際に、

米軍からの連絡を受け、

ペリリュー島内の日本兵の捜索が

行われるが、達成できず、

日本軍による捜査は打ち切られた。

翌年2月頃から、米軍のマイク放送

あるいは

日本の新聞雑誌などを各地に配置し、

島内の日本兵に投降を促していたが、

日本兵は応えなかった。

そこで、米軍は同年3月に

澄川海軍少将を説得役に指名し、

終戦の現状を説明し、

投降を勧告することとなった。

澄川少将はメガホンを持って呼びかけ、

勧告書を幾度も送るが、

日本兵たちからの反応はなかった。

投降勧告が続く中、

1947(昭和22)年4月2日に

一人の上等兵が単身投降。

彼の助けにより、

潜伏する日本兵たちの肉親や知人、

かつての上官に説得の手紙を書いてもらい、

同月21日、澄川少将はそれらの手紙を携え

日本兵たちが潜む洞窟地帯へと

説得へ向かった。

澄川少将はスピーカーを手に

手紙を一つずつ読み上げると、

洞窟内の日本兵たちも

次第に態度をやわらげ、

その勧告を受けることとなった。

翌日22日には

東地区の湿地に潜伏していた8名も投降し、

同日34名全員でペリリュー飛行場の

米軍キャンプにおいて、

降伏式典を行った。

1947(昭和22)年4月22日、

ペリリュー島に転身して、

丸3年が経っていた。」

【左】

「米軍からの投降勧告ビラ」

【下】

「ハンドマイクでジャングル内に潜む

日本兵たちに投降を促す澄川道男少将。

1947年4月。」

右上】(拡大)

「水戸山陣地」

「水戸山地下洞窟(千人壕)

水戸山に掘られたこの深く複雑巨大な壕は

高度に要塞化されており

ビルの三階から四階建てに相当し

文字通り一千名の兵力が潜んでいた。

そのため一度無力化された陣地が

何度も復活し、海兵隊を悩ませたほか

上方の洞窟口より地上の海兵隊に対し

執拗な攻撃が加えられた。」

まるでアリの巣ですね・・・

硫黄島でも米軍を悩ませた

複郭陣地の先駆けでしょう・・

【上】

「米軍と澄川少将らの投降作戦が成功し、

ジャングルから姿を見せた日本兵たち。

1947年4月22日」

【下】

「洞窟から出てきた直後の日本兵。

左端の澄川少将が持っている自動小銃は

日本兵たちが手渡したもの。

1947年4月22日。」

【上】

「投降の儀式に則って、

手造りの日の丸に軍刀を包んで

米軍司令官に差し出す山口少尉。

1947年4月22日」

【下】

「投降してきた34名の日本兵。

最前列の左端が山口永少尉。

1947年4月22日。」

「ペリリュー島からの生還者34名」

この中の

「西カロリン航空隊12名」のうちの一人、

福岡県八女郡出身の土田喜代一氏が、

「1947(昭和22)年4月2日に

一人の上等兵が単身投降」と

記されていたその人で、

2015年、平成の天皇皇后両陛下の

ペリリュー島慰霊でも

立ち会った人物です。

僕の地元の方とこんなご縁があるのが、

ちょと不思議です・・・

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください