2024/11/27
鶴ヶ城(会津若松城)天守からの展望
愛称か正式名称か?
前回の会津旅のブログでは
会津若松城(鶴ヶ城)と題していましたが、
今回はその反対で、
鶴ヶ城(会津若松城)としています。
いくつかの情報を照らし合わせると
鶴ヶ城の正式名称は、
会津若松城か若松城かと思います。
ただ、ここ会津若松では、
「鶴ヶ城」の愛称が、
圧倒的多数で使用されているので、
会津若松の方々に
敬意を払った次第です(笑)
三層
ここは前回来た時も
8割ほど完成し、
展示もされていたので、
ダブってしまう部分もありますが、
記憶も薄くなっているし(笑)
一周することに。
幕末の動乱と会津。
年表形式で、実に見やすい展示です。
戊辰戦争への導火線は、
やはりペリー来航でしょう・・・
文明の発達は、
人々を幸せになんかしません。
国家。個人が利益追求の果てに
大量殺戮へと導くのみ・・・
スマホが無かった縄文人、
殺し合いをしていませんから・・
ここでの注目はこちら・・
「宸翰を賜る」
松平容保公が、
生涯離さなかったという、
孝明天皇からの賜り物です・・
公儀(政権)が変われば、
人の評価も180度変わるもの。
ここまで天皇に尽くした武士が、
朝敵の汚名を着せられて
罪人にされたとは、
容保さんの胸中を思えば、
胸が締め付けられます・・
鳥羽伏見の戦いが
会津藩悲劇の始まり・・
ここでの注目はこちら・・
奥羽越列藩同盟の旗。
安倍晴明の五芒星を
模したものでしょうか?
五芒星には魔除けの意味があるので、
そうかも知れません。
「中野竹子らが敵軍と遭遇
竹子は敵弾に倒れる」
前回も見ていましたが、
その時は「中野竹子」という人を
全く知りませんでした・・
お墓参りまでした今回は
「あ〜あの竹子さんだ!」と
しみじみと感じます・・
籠城時の戦局と推移。
補給路としていた
南のルートが敵軍に抑えられた事が
最終的な降伏へと繋がったようです。
籠城戦は援軍が来なければ、
基本負けます・・・
きっと松平容保さんも
分かっていたはずですが、
保科正之公の残した、
幕府に絶対忠誠の家訓は、
守るしかなかったのでしょう・・
籠城戦のジオラマと
プロジェクションマッピング。
籠城戦の推移がよく分かります。
白虎隊について。
「敗戦後の苦難」
前回も見ていますが、
ここだけは外せません・・
特に会津若松に来る2週間前、
僕たちは会津藩が流罪同然に
追いやられた斗南藩の遺構を
巡っているのですから・・・
斗南藩以降も、
北海道で屯田兵となったり
西南戦争で従軍したり、
賊軍としての差別を受けたりと
会津藩士達の苦難の道は続くのです・・
展望
四層は前回見ているし
時間もないので完全スルーし、
そのまま展望層へ。
ここも撮影はOK。
もうすぐ頂上。
手前は太鼓門から
遠くは磐梯山も見える北側。
手前には本丸御殿跡と御三階跡、
遠方には飯盛山が見える東側。
飯盛山アップ。
鶴ヶ城のシンボル赤瓦、
長〜い続櫓と鉄(くろがね)門、
その先には干飯櫓が見えています。
西出丸方面、西側の景色。
南北側から見えるのは、
6月も終わるというのに、
雪を被った磐梯朝日国立公園の
山々が見えています。
下城
下城ルートは搦手側から。
本丸から帯廓へ。
太鼓門から北出丸へ歩き、
西郷頼母などの
家老屋敷跡へと向かいます。