鶴ヶ城(会津若松城)天守内覧
主目的
昨年(令和五年)4月に訪問した時は、
天守内部はリニューアル工事の途中で、
三層以上のみが観覧可能でした。
ということで、
今回の主目的は、
まだ見ぬ一層、二層の観覧です。
天守内へ
天守外観を楽しんだ後、券売所へ。
券売所近くで待っていたのは、
二頭の赤べこです(笑)
赤べこはかなりの人気者。
なので、
人が切れた一瞬を狙って撮影を完了。
東側の塩蔵が天守入口。
中へ。
石垣内部を見ながら一層へ。
一層は撮影禁止なので、
何を見たのか、
正直、記憶にございません(汗)
二層 城主の変遷と国づくり
二層に到着。
ここからは撮影OK。
エントランス。
あっさりした展示物。
このロゴはいいね!
歴代藩主の紹介
二層のメインはここから。
葦名家からはじまり、
幕末まで領主だった保科・松平家までを
年代順に紹介されていますので、
案内を要約し書き出して見ます。
葦名家(1384〜1589)
「三浦半島をおさめていた三浦一族の
佐原義連が、源頼朝より
会津地方の地頭職を任ぜられ、
三代から葦名氏と称するようになり、
七代直盛から会津の直接支配が始まり、
戦国期の十六代盛氏の代に
葦名氏は最盛期を迎える。
盛氏は向羽黒山城を築くも、
その後、勢力は衰え、
二十代善広が伊達政宗に侵略を受け、
葦名氏の会津支配は終わりを告げた。」
初代佐原義連と十三代葦名盛高の木造。
伊達家(1589〜1590)
「米沢の領主だった伊達政宗は、
葦名氏を破り会津を手中におさめ、
広大な領土を有するようになったが、
豊臣秀吉の小田原攻めの際、臣下となり、
わずか一年半で会津領を明け渡し
米沢に戻ることになった。」
黒塗六十二間筋兜(模造)
「伊達政宗が会津の甲冑師だった
雪下氏を家臣にし米沢に連れ帰り、
自藩で甲冑の制作を命じた。
政宗の甲冑として最も有名になっている
この三日月の前立のあるこの甲冑は、
仙台では「仙台胴」と呼ばれるが、
会津では「雪下胴」と呼んでいる。」
蒲生家
(1590〜1598)
(1601〜1627)
「豊臣秀吉の奥州仕置により、
会津は蒲生氏郷に与えられる。
氏郷は町の名を「若松」と改め、
「鶴ヶ城」を築城する。
城下の整備や国内中央の文化を
東北にもたらした事など
大きな役割を果たした。
氏郷没後、一時会津を離れるが、
再び会津領主に帰り咲いた。
ただ、その後、不運が続き、
蒲生家は三代で終わりを告げた。」
燕尾形兜(模造)。
「蒲生氏郷の兜は「鯰尾」と呼ばれる
細長くそびえた兜が知られているが、
現存するものがなく、
この燕尾形の兜は、氏郷の妹が、
南部家に嫁いだ時に持参したという
由来をもつ。」
上杉家(1598〜1601)
「蒲生氏の後、
五大老の一人だった
上杉景勝が会津藩主となる。
石高は全国3位の百二十万石であったが、
家康と対立、
景勝が神指城を着工すると
家康は中止を求めたが従わず、
会津討伐に出陣、
その最中石田三成が挙兵し
関ケ原での家康勝利後、
米沢三十万石へ大幅な減封処分となった。」
黒塗六十二間筋兜(模造)
「上杉景勝は、上杉謙信の甥。
この兜は頭をおさめる鉢の部分が
小ぶりで、景勝が大人になる前に
かぶっていたものではないかと
考えられている。
武士の信仰をあつめた
摩利支天のシンボルである卍を、
いのしし形の前立にあしらった
デザインが特徴的である。」
加藤家(1627〜1643)
「蒲生忠郷が亡くなると、
幕府は伊予松山の城主だった
加藤嘉明に会津四十万石の
領主を命じた。
賤ヶ岳の七本槍の一人で、
多くの武功を挙げてきた嘉明は、
子の明成とともに
天守閣を再建し、
城下を改修するなどしたが、
明成は昔ながらの圧政をし、
反乱も抑えることができず、
領地を幕府へ返上した。
大黒頭巾鳥毛飾兜(模造)
「加藤嘉明は、おもに船を用いた
水軍戦を得意とした武将で、
晩年、伊予松山から会津に移った。
この兜は、前任地の松山城に
伝えられるものである。
他に嘉明の兜としては、
銀箔を貼った富士山形兜など、
変わり兜がいくつか伝えられている。」
保科・松平家(1643〜1868)
「徳川家光の実弟である保科正之は、
寛永二十年(1643)に会津入りし、
以後幕末まで
二百年以上にわたり会津を統治した。
徳川将軍家への絶対的な忠誠を藩是とし、
安定した藩の経営が長く続く。
幕末、九代松平容保は、
幕府から京都守護職を拝命するも
将軍は大政奉還し、
その後の戊辰戦争で会津藩は負け、
賊軍とされることになる。」
保科正之 書「三つね」
「古今和歌集の歌を
正之が書いたものとされる。」
家訓(写本)
「藩祖、保科正之が定めた、
会津藩主として守るべき事柄を
箇条書きにしたもの。
毎年正月に読み上げられたという。
第一条の将軍家には
絶対服従するということが、
幕末の京都守護職を受諾するように
迫られた最大の要因となった。」
このような解説もあります。
家訓、現代語訳。
気になる第一条は以下のとおりです。
「一、大君(将軍)の義は、
一心に忠勤を励むべきで、
他藩の例をもって満足してはならない。
もし裏切りの心をいただけば
我が子孫ではないから、
家臣は決してこれに従ってはならない。」
これは実に重いですね(汗)
容保さん、仕方なかったか・・・
松平容保肖像写真。
「陣羽織は孝明天皇から頂戴した
緋色の生地を用いていると
いわれている。」
孝明天皇からは
絶大な信頼を得ていた容保さん、
それが朝敵、賊軍の汚名を
着せられるとは、
歴史の渦って本当に残酷です・・
誓詞(写本)
「松平容保が会津藩の
九代藩主に就任した際に、
幕府に提出した書の写し。
おそらく藩主が交代した際に
儀礼的に行われていたものであろうと
推測される。」
江戸時代は神仏習合なので
「権現」と記されていますが、
三嶋大社の神様に誓っているんですね!
起請文と同じ意味合いだったのかな?
会津 歴史の小窓
ここからは歴代藩主の
レア情報とゆかりの地の紹介です。
葦名家は、廟所が気になりますね・・
「伊達政宗が小田原の
豊臣秀吉のもとに出向くまで」
これってちょっとマニアックですね!
死装束で秀吉に拝謁した話は、
脚色された可能性大のようです(笑)
蒲生氏郷さんの故郷は滋賀県。
銅像の兜がすごいな〜(笑)
奥さんは信長の娘だし、
息子、秀行の奥さんは、
家康の娘の振姫だし、
めっちゃ血統いいのに、
三代で断絶したのは、やはり
有能な氏郷さんが、
短命だったからでしょう・・・
上杉家はやはり
関ケ原の戦いの引き金になった
神指城の築城と、会津征伐の経が、
加藤家は、加藤嘉明の主な武功が、
地図上に記されています。
加藤ちゃん、日本史に残る
主な戦いの多くで
大活躍だったんですね。
保科。松平家。
藩祖、保科正之のルーツ、
小さい頃から養子となっていた
高遠藩主保科正光のこと、
そして、
藩主松平家の巨大墓地である
院内御廟が紹介されています。
保科さんが眠る土津神社、
明暦の大火後、
保科さんが天守は不要とし、
以降、江戸城天守は
建てられなかったことなどが
書かれています。
初めて知ったのが、
北方警備で命を落とした
会津藩士のお墓が利尻島や稚内に
あるということです。
慰霊の旅、
北海道の北端まで行かないと(汗)
「ならぬことは ならぬのです」で有名な
藩校、日新館について。
映像。
会津の産業。
江戸時代、蝋燭(ろうそく)の産地は
会津藩と薩摩藩が有名だったそうで、
今でも会津若松の
伝統工芸品となっているようですね。
ここまでで充実した二層は観覧終了し、
さらに上層階へと向かいます。
(続く)