上杉家廟所(米沢市)歴代藩主の墓
鷹山公の手腕
「参拝のしおり」によると
「十代治憲(鷹山公)は、
儒教の孝道上、
親を火葬とすることは忍びないとして、
九代重定公を土葬とし、
以後十二代斉定公まで
これに倣っています。」
このように書かれています。
明記はされていませんが、
恐らく火葬後、
高野山に納骨していた慣習も
改められたのでしょう・・
鷹山公は、
「儒教の孝道上」という
大義名分を使う事によって、
米沢から紀州(和歌山県)、
高野山までの旅費や納骨費、
奥之院の墓碑建立費など
恐らく葬儀にかかる
莫大な費用をカットするのが、
目的だったと推測出来ます・・
これと同時に
米沢の廟屋も簡素化され、
建築費用の圧縮もあわせて達成し、
藩の経費は、
大幅にコストダウン出来たはずです。
誰もが
「お金、めっちゃかかるよな・・
でも藩主様のお墓だし・・・」
な〜んて思っていても
手が付けられなかったであろう
藩主墓所の経費節減を
このような理由をくっつけて、
有無を言わさず、しかも穏便に(多分)
やり遂げてしまうとは、
鷹山公の手腕、尋常ではありませんね。
西側の廟屋
上杉家廟屋は中央の奥に上杉謙信公、
その手前左右に歴代藩主が配置されています。
奥が謙信公、
左手前が二代景勝公、
右手前が三代定勝公の御廟。
まずは、
二代から偶数代藩主の御廟へ。
西側の散策時には、
ボランティアガイドのおじ様が
ずっと付き添ってくれ、
その親切な案内は、
御廟の思い出の一コマとして、
僕たちの記憶に刻まれています。
二代 景勝公。
参拝。
二代と三代の間には、
拝所のみがあり廟屋はありません。
中に立つのは、
十四代茂憲公の瘞髪(えいはつ)碑です。
上杉神社の参道にも
顕彰碑的な案内がありましたが、
茂憲公は戊辰戦争後家督を継ぎ、
明治時代には沖縄県令として
家族を伴って沖縄に赴任し、
離島を含めた各地を周り、
沖縄の為に尽くした方で、
2年程の道なかばで、
「既得権益を温存する政策」の
明治政府に解任されるも
茂憲公が沖縄から本土に送った
5人の留学生は、その後、
沖縄の発展に大きく貢献しています。
参拝。
今でもここを訪れる
沖縄の方々も多いとか・・
四代綱勝公。
参拝。
六代、吉憲公。
参拝。
八代、宗房公。
参拝。
十代、治憲(鷹山)公。
廟屋は簡素化されてシンプルです。
上杉家中興の祖で、
莫大な借金を、
一代でほぼ完済したという事、
唯一点をとっても
この方の偉さが分かりますね。
上杉鷹山の世子、顕孝公。
鷹山が隠居後(実質は藩主のまま)、
後継となっていたものの、
家督を継ぐ前に亡くなった方です。
藩主でないので、
控えめに?
奥まった所に配置されています。
参拝。
十二代、斉定公。
参拝。
東側の廟屋
次に真ん中の
上杉謙信御廟を挟み東側の廟所へ。
墓域の全景は壮観ですね。
三代から奇数代藩主の廟屋。
ここで急遽、台湾からの
団体が到着するという知らせを聞き、
ボランティアガイドのおじ様は、
慌ててそちらの対応へ。
僕的には、
少し撮影タイムも欲しかったし
お互いに良いタイミングだったかも(笑)
三代、定勝公。
この方までが30万石で、
後継問題のため、
その後米沢藩の石高は、
15万石に半減し、
財政はより厳しい
状況になったとか・・
参拝。
五代、綱憲公。
参拝。
七代、宗憲公。
参拝。
九代、重定公。
この方からが土葬となり、
廟屋もシンプルになっています。
参拝。
十一代、治廣公。
参拝。
廟所東側からの全景。
お見送りミュージック
僕たちが参拝している最中、
オカリナを持ったお姉様方が、
ベンチに座って
何曲か演奏してくれました。
帰りがけにも一曲・・
墓所の参拝中に
オカリナの生演奏のBGMとは、
何と贅沢な墓参りだった事でしょう!
上杉家廟所は、
みんなに愛されているお墓ですね。
今日の面白発見
参拝後、駐車場に向かう途中、
発見したのがこんなものです。
灯油缶でしょうか・・
缶のデザインが「米」に見えます!
「米沢」で「米」マークの灯油缶、
なんか持ってますね〜僕たち(笑)