善龍寺(会津若松市)西郷頼母の墓

 

藩政墓地

善龍寺参拝の目的は、

西郷頼母さいごうたのもと自刃した妻ら

21人の墓参りですが、

その背後の山には、

江戸時代初期からそのまま残る

会津藩士の巨大墓地が存在しています。

善龍寺本堂の裏手には、

西郷頼母らの墓があり、

そのまた後ろの山全体が、

土葬された藩士たちが眠る

大窪山墓地で、

その墓石は4千にものぼるそうです。

こんな大規模な土葬墓が

400年近くもそのまま残るのは、

かなり稀有なことでしょう。

それだけに会津藩士達の

魂の拠り所であろう善龍寺には、

大いに繁栄していただきたいものです。

なよたけの碑

「なよたけ」と聞いて、

すぐに何の事かが、

理解できるようになった僕たちは、

ちょっとだけ会津魂が、

育まれてきたかも知れません(笑)

本堂左手の「なよたけの碑」(真ん中)。

以下案内です。

「戊辰の役で、多くの婦女子は、

藩のために非業の死をとげた。

この碑は、戊辰の役に殉じた名前の解る

233名の婦女子の偉業を留め、

霊を慰めたものである。

碑の歌は、か弱い婦女子の心を

たまわぬ竹の節になぞらえながら、

会津婦女子の精神の強さを、

うたいあげたものである。」

松平容保の七男、

松平(源)保男さんの書で、

漢字が難しくて書けませんが、

「なよたけのひ」と

刻まれているはず・・(汗)

こちらは「なよたけの碑」の元となった、

西郷頼母の妻で、

自刃した千重子さんの辞世の句碑です。

「なよ竹の 風にまかする

身ながらも たわまぬ節の

ありとこそきけ」

意味は、

「弱いなよ竹と同じように

風に吹かれてしまう身だけれど、

強風にも曲げられない、

なよ竹の節のように、

私も節義に殉じてみせる」

この碑の最後には、

「甥 飯沼貞雄書」と書かれています。

飯沼貞雄さんって、

飯盛山で自刃した

白虎隊唯一人の生き残り、

飯沼貞吉さんの事ですね・・

(維新後、貞雄と改名)

会津藩士と女性達を慰霊するのに

これほど相応しい方はいないでしょう。

殉難婦女子233名を供養の為、

平成15年に建立された

観世音菩薩像。

西郷頼母之墓

まずはお墓の案内から。

「西郷頼母と21人の墓」

「西郷頼母は、会津藩家老として、

藩主・松平容保の京都守護職就任に

強く反対、戊辰戦争では

会津の幸福を願い、

和議恭順を主張した憂国の士である。

慶応四年(1868)8月23日、

西軍が若松城下に侵入、

頼母は城中にあったが、

屋敷にいた妻や母など

家族と一族21人が

足手まといにならないようにと

自刃して果てたのである。」

右が頼母さん、

左が21人の墓へのエントランス。

まずは頼母さんへ。

藩祖、保科正之の縁戚なので、

頼母さんのお墓は、

保科家の墓域にあります。

平成元年建立の墓石案内。

頼母さんの墓石についてや、

その経歴、

荒廃していた墓域を

整備したことなどが

書かれています。

お墓に到着。

真ん中が頼母さんと奥様の墓石。

案内に書かれている通り、

「ひときわ小さな墓石」です・・ね。

夫婦揃って一つの墓石というのは、

萱野権兵衛さんと同じですね・・

「保科八握髯翁」が

西郷頼母さんの事で、

晩年用いた名前だそうですが、

やはり権兵衛さんや

多くの会津藩士同様、

元のお名前は、

明治政府への配慮もあって

書けなかったのかも知れません・・

側面には

明治三十六年四月廿八日と

命日が刻まれています。

二十一人之墓

次に自刃した21人のお墓へ。

綺麗に整備された参道。

この辺り、

墓石だらけですね・・

完璧な案内で迷う事はありません。

先ほどの案内と同じく、

一族21人が自刃したことが

書かれています。

21人のうちの

どなたかの墓石もあります・・

この墓石は居士とありますので、

21人のうち2人いた

男性のものでしょう・・・

この二基は「大姉」なので、

女性のお墓ですね・・

そして、

二十一人之墓へ・・。

お堂が設られて、

大切にされています。

参拝。

誰とも分からないよう、

単に「二十一人墓」としたのは、

「戦死墓」と同じような

主旨でしょう・・

どこまでも悲しいな・・

伴百悦の墓

帰りがけ右手の小山で見つけたのが、

伴百悦という方のお墓です。

全く知らない人です・・

しかし、気になったので

参拝することにしたのですが、

この人、凄い方でした!

墓誌。

この人を一言で表すと

「武士の身分から

遺体処理が出来る

賎民となって東軍の遺体を

手厚く葬った人」

こうなります。

当時の武士は賎民(被差別部落)との

会話は禁じられていて、

ましてや、

賎民の専門職である遺体処理などは、

到底考えられないことだったようで、

自ら身分を落としてまで、

多くの仲間の霊を弔った伴さんは、

会津武士の鏡のような存在かも

知れません。

三回目の改葬で、

ここに墓碑が建立されたと

書かれています。

参拝。

本当に尊いお方だ・・・

再び山門へ

墓参を終えて、

山門近くの車へと戻ります。

お〜陽が傾いて、

山門がいい感じになってますね〜!

ツーショットは山門前に決定!

次の目的地は、

ようやく(笑)鶴ヶ城です。

 

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