白虎隊士の墓(会津若松市・飯盛山)

 

東軍・西軍

日本史において東軍・西軍といえば、

超有名なのは、関ヶ原の戦いですが、

戊辰戦争の案内においても、

新政府軍が「西軍」で、

会津藩側が「東軍」という記述が、

多く見られます。

応仁の乱でも東軍・西軍でしたが、

東・西のくくり、

単純明快で確かに便利です(笑)

参道

さざえ堂宇賀神堂を参拝後、

白虎隊士の墓へと向かいます。

道の真ん中に建っている案内。

これがあれば恐らく、

間違う人はいない・・はず(笑)

石段で入口へ。

昭和三年に建立された

「墳墓沿革」の石碑と、

その現代語訳。

内容を要約すると

以下になります。

「明治16年に完成した白虎隊士の墓は、

明治23年に拡張されるも

手狭だった。

その様子を見た

東武鉄道の創始者・根津甚一郎は、

元白虎隊士で後に東京帝国大学総長として

活躍した山川健次郎博士に相談し、

率先して出資するなどして、

大正14年にさらなる

拡張工事がなされました。

昭和元年、白虎隊の精神に

感銘したイタリアから

記念碑の申し出があり、

高松宮宣仁親王殿下を総裁として迎え、

昭和3年12月1日、

総裁殿下ご臨席の下、

除幕式が行われました。

なおこの碑を建てるにあたっては、

大倉喜七郎男爵(大倉集古館理事長)の

功績が大きいところです。

昭和3年12月建立

会津弔霊義会

医学士 森川良蔵 題弁書」

東京大学の総長が、

白虎隊士だったとは、

凄い経歴です。

やはり山川健次郎博士も、

白虎隊の名前を残すために

生かされた人なんでしょう。

山川さんをWikipediaで調べると、

九州大学の初代総長もされていて、

現在、

九州大学伊都キャンパスには、

銅像があるそうです。

福岡に住んでいる僕たちの

ごく身近な場所に、

白虎隊士だった方の銅像があるとは・・・

不思議な繋がりですよ。

ちなみに、

大倉喜七郎男爵は、

ホテルオークラを創業した方です。

「白虎隊霊場」の文字に、

身が引き締まる想いですが、

3がラッキナンバーの妻は

「参拝順路3」に

「白虎隊さんが

私を呼んでくれてる〜」

と気分は高揚気味です(笑)

白虎隊士の墓に参拝

遂に霊場に到着。

お墓の正面。

線香を購入し、お参りへ。

「白虎隊士の墓」

案内を要約すると以下になります。

「正面の墓はここ飯盛山で自刃した

白虎隊19名の墓です。

西軍(新政府軍)により

遺骸に手をつけることは

禁じられていましたが、

村人により密かに仮埋葬され、

後にこの地に改装されました。

右側の墓は領内各地で戦死した

31名の墓で、

左側の碑は白虎隊所属の有無に関係なく

大人と一緒に戦い戦死した

14〜17歳の少年武士62名の

慰霊碑です。」

19名のお墓。

心を込めてお参りする妻。

周辺のお墓・慰霊碑

白虎隊士19名の墓を

お参りした後、

周辺のお墓や慰霊碑へ。

白虎隊のお墓の左側に建つ、

「松平容保公弔歌の碑」。

案内を書き出すと、以下になります。

「戊辰戦争(1868年)で自刃した

白虎隊士の殉難忠節に対し、

第9代藩主松平容保公が詠んだ

弔歌の碑です。

「幾人の涙は石にそそぐとも

その名は世々に朽ちじとぞ思う」

碑は、

八田野(現会津若松市河東町)の

篤志家八田宗吉によって

建てられました。」

ここで「八田」の苗字が

気になります。

もしかすると八田宗吉さんは、

江戸時代初期、戸ノ口堰を作った

八田野村の、八田内蔵之助さんの

子孫かも知れません(勝手な推測です)

先ほどの案内に紹介されていた

少年武士慰霊碑に参拝。

こちらも案内にあった、

領内各地で戦死した31名の墓。

このお墓の左端には、

こちらの石碑が建っています。

「鶴ヶ城献納者 遠藤敬止 弟

白虎隊士 遠藤嘉竜二墓碑参道」

遠藤嘉竜二さんは、

戊辰戦争で戦死しています・・

鶴ヶ城(会津若松城)訪問の際、

私財を投じてお城を買取り、

旧藩主、松平家に献納したという、

遠藤敬止さんの顕彰碑を見ましたが、

弟さんが、白虎隊として

亡くなっていたのですね・・・。

弟さんの慰霊も込められた

鶴ヶ城の献納だったのでしょう・・・。

お墓へ。

慰霊碑。

慰霊碑の後ろが墓石でしょう。

合掌・・・。

イタリア碑・ドイツ碑

ここには戦前、

二つの国から贈られた

石碑が建っています。

昭和3年に建てられた

ローマ市寄贈の碑。

要約すると

以下になります。

「表面には、

「文明の母であるローマは

白虎隊勇士の遺烈に

不朽の敬意を捧げんため、

古代ローマの権威を表す

ファシスタ党章の鉞(まさかり)を飾り、

永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」

裏面には

「武士道の精神に捧ぐ

ローマ市元老院及び市民より」

と刻まれています。」

鉞は撤去されていますが、

大鷲は残っています。

戦後GHQの検閲があったから

このようになったのでしょう。

ドイツ人、

フォン・エッツドルフ氏寄贈の碑。

案内には、

「昭和9年この地を訪れた

ドイツ大使館書記官エッツドルフが、

白虎隊精神に感動して贈った碑です。

碑には、古来ドイツ国のマークと

「若き少年武士へ 一ドイツ人」と

ドイツ語で刻まれ、

翌10年に建てられました。」

こちらも進駐軍により

8年ほど撤去され、

文字も削られていたそうですが、

少年武士(白虎隊)への敬意を感じる

シンプルで、素敵な石碑です。

ここまでで白虎隊霊場での

参拝と散策は終わり、

次に、

白虎隊士自刃の地へと向かいます。

 

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