明王院(2019年福山の旅)後編
神仏習合の地
江戸時代までは神社と寺は
共存している場合が多く、
いわゆる神仏習合でした。
ここ法明院もその例の如く、
法明院の鎮守社だったのが、
お隣の草戸稲荷神社で、
奈良の東大寺とその鎮守社、
手向山八幡宮の関係と
同じようなものですね。
そんな神仏を分離したのが、
明治時代の神仏分離令。
この命令によって、
これは神社の持ち物、
こちらは寺の持ち物など
完全に分離するのには、
かなり苦労したようです。
だから今も寺に鳥居や狛犬があったり、
神社に鐘楼があったりするんですね。
そして、ここ明王院にも
その痕跡が残っていました。
それは、本堂よりも山の上にある
二つの寺社です。
愛宕大権現、愛宕神社へ
本堂の裏手から、
愛宕山に登る長い石段があります。
境内前にあった地図で言えば、
右上の五重塔から
さらに上に連なる石段です。
五重塔の裏側には鳥居があります。
まるで神社ですが、ここはお寺です(笑)
お手水は昔の井戸とポンプですよ!
ちょっと鉄の味がしましたが、
無事お手水は完了です。
ここからはいくつもの
石仏が並んでいます。
石段。
だんだん山の中に入っていきます。
所々で石仏が、
僕たちを見守っています。
ど根性樫
この石段の途中には、
「ど根性樫」という樫の木があります。
これは凄い!
樹齢は数百年と伝わります。
長年の風雨で土が流され、
根っこをむき出しにしながらも
ずっと生き続けている姿に
「ど根性」の称号を贈ったようで、
間違いなく心に響く、「ど根性」でした。
案内板は雪に埋もれていましたので、
雪はそのままにして、撮影。
内容は上記のようなことが
書かれています。
砂防ダム?
実は福山には江戸時代に出来た
「砂留」(すなどめ)という砂防ダムの
元祖みたいな石積みの
凄い遺構が数多くあります。
これは全国的にも類をみない画期的なもので、
土砂災害対策に対して、
福山藩の先見の明を証明しています。
しかもその遺構の一部は、
今でも機能しているというから
驚きで、次回の旅では訪問したいと
思っていた矢先に、
石段の途中でこちらを見たので、
目を止めてしまいました。
神社仏閣とは全く関係ないし
砂防ダムの用途でないかも知れない
現代の構造物ですが、とても気になります。
愛宕大権現(愛宕社)
明治時代の神仏分離令によって
愛宕神社の本地仏を遷して
作られたのが、愛宕大権現です。
石段を折り返すと、
そこに社が見えてきます。
天狗の面?
あ~あった天狗の面(笑)
愛宕大権現正面から参拝。
実はこのすぐ後ろに
五重塔の屋根が見えていたはずですが、
それは後からネットの写真で知った事。
ちょっと残念かも(笑)
草戸愛宕神社
愛宕大権現からさらに山を登ります。
古い石段と雪のコントラストが、
江戸情緒を醸し出しています。
このあたりの石は、
さらに古い感じがします。
そして、妻が一言。
「あ!石を切り出した跡がある!」
お~
これは楔を打ち込んだ跡ですね。
なんだか江戸時代の石工が
石を切り出している場面を
思い浮かべてしまいます・・・
多分、鞆城跡の石を見たときも
同じこと思っていたような(笑)
そして、
石段を登りきると案内版があります。
親王院跡。
ここは、平城天皇の第二皇子、
真如法親王が住んでいた
場所とされています。
ここから展望台方面に10mくら歩くと、
草戸愛宕神社です。
本殿は覆屋の中で、
全く見られません。
年に数回お祭りの時は扉が開くそうです。
本殿の写真があるのが、いいですね!
江戸時代までは明王院の
防火の守護社だったもので、
今は、草戸稲荷神社の境内社です。
棟札により1628年の創建が
確認されています。
こちらはお隣の末社。
お祭りされている神様は、
わかりませんでした。
帰路へ
石段を降りて再び本堂付近へ。
御神木の周りにはおみくじが。
十二支それぞれに分けて
おみきじを結ぶタイプですが、
全部が均等に近い数なのです。
人は毎年、
万遍なく生まれるという事でしょうか。
七福神。
芸能の神様、弁財天。
池の中でちょっと寒そうな弁財天様を見て、
お隣の草戸稲荷神社と向かいます。