会津若松城(鶴ヶ城)(6)
ビジュアルは大切?
現存天守だけしか
あまり興味なかった僕ですが、
お城巡りをしているうちに、
「場所によっては復元でも模擬でも
建造物はあった方が、
はるかに楽しいな」
そんな思いになってきました(笑)
干飯櫓・南走長屋・天守、
全てが現代になって
復興再建された会津若松城(鶴ヶ城)、
これが石垣だけしか無かった場合、
お城の印象は180度違うでしょう。
やはり、あって良かった(笑)
干飯櫓・南走長屋の内覧
天守の内覧を終え、
次に干飯櫓・南走長屋の内覧へ。
「干飯櫓は、若松城にあった
11棟の二重櫓のうち、
一番規模の大きかった櫓です。
会津藩家世実記には
糒蔵(ほしいぐら)ともあり、
文字通り食糧庫で
あったと言われる建物です。
南走長屋は
鉄門(くろがねもん)と干飯櫓を結ぶ
走長屋で、武器庫であったと
いわれる建物です。
いずれも本丸と帯郭(おびくるわ)を
隔てる重要な建物でした。
天守閣とともに明治7年までに
取り壊されました。」
これに続き、
「1639年(寛永16年)に
加藤明成が大改修を行った当時の
鶴ヶ城の構造をご覧いただけます!!」
このように書かれています。
天守から北出丸、西出丸、
そして、この走長屋など
加藤明成さん、鬼のように(笑)
若松城の復興に邁進したのはいいけれど
きっとその為の重税や課役で、
民衆は疲弊したのでしょう。
しかも
会津騒動(家中の騒動)を引き起こし、
「寛永の一大リニューアル」後、
ほどなくして、
40万石から1万石への大減俸で
石見国(島根県)に
転封させられています。
売店の端っこからが入り口です。
まずはシアター(右側)で、
歴代藩主の映像を見て、
気分を高揚させます(笑)
大河ドラマ「八重の桜」の衣装展示。
長屋内部。
鉄砲狭間からの銃撃シーン。
石落としのシーン。
武器庫の再現。
デジタルアート。
オシロボッツ。
これ、知りませんでした・・
今時は何でもありなんですね(笑)
自分達土産。
城内散策
櫓内部を見た後は、
城内散策を再開。
月見櫓。
「櫓にかかる月が
一際美しかったから
このような名で呼ばれた。」
僕たちが行った時は
月ではなく夕陽が大きく
綺麗に見えていました(笑)
月見櫓から天守を撮影。
茶壺櫓。
「この櫓の下には、
茶屋麟閣があり、櫓内には主に
貴重な茶器類が納められていたため
この名がある。
茶壺櫓は廊下橋の側面の守りとして
最も重要な櫓である。
廊下橋両側の石垣の高さは
約20メートルと
城内で最も高く美しい石積みである。」
このように書かれています。
茶壺櫓からすぐ下にある茶屋麟閣、
そして天守を撮影。
茶壺櫓付近から見た廊下橋。
ここは後ほど訪問することにして、
本丸周囲の帯郭へと戻ります。
萱野国老殉節碑。
案内を書き出すと
以下になります。
「萱野権兵衛長修は国家老として
内政の責任を担っていた。
慶応4年(1868)戊辰戦争では
先頭に立って激務にあたった。
また敗戦処理に関しては、
城明け渡しや藩主父子の
助命嘆願に力を尽くした。
その結果、藩主は死を許されたが、
戦争責任は家老田中土佐、神保蔵助、
萱野権兵衛にあるとされ、
田中、神保は既に死亡しており、
萱野権兵衛のみがその罪を
一身に背負い切腹した。
この碑は昭和9年、
有志の手によって建立された。」
これを見て、会津戦争の3年前、
第一次長州征伐の責任をとって切腹した
毛利家の家老、
福原越後元僴(もとたけ)を
思い出しました。
「家老が切腹し藩主は許される」という
あるあるのパターンですね。
鶴ヶ城稲荷神社
天守北側の石垣上にあるのが、
稲荷神社です。
社頭。
なんか、素敵な狛狐です。
編笠にほっかむり(笑)
険しいお顔が、なんだか剽軽に見えて、
めっちゃ癒されるな〜!
拝殿へ。
参拝。
本殿にも参拝。
稲荷神社の左手前にある境内社。
何を祀っているかは不明です。
(続く)