安土城(滋賀県近江八幡市)中編

 

安土城天主の寿命

安土城の天主(天守)は、

完成からわずか3年ほどで焼け落ち

跡形もなくなっています。

なんとも勿体ない(笑)

従って、寿命は3年です・・・。

本能寺の変の後、

2週間位の出来事で、

出火原因は諸説あって、

その一つに、

本能寺の変後、安土城にいた

明智秀満(左馬之助)が

放火した説もありますが、

歴史は常に勝てば官軍、負ければ賊軍、

きっと濡れ衣を着せられているのでしょう。

(個人的な感想です)

勝者はなんとでも

歴史を塗り替えますからね(笑)

黒金門跡

本丸、二の丸など、中枢部分に近くなり、

ようやく桝形虎口的な場所が出現します。

積み直されたものか、

当時のままなのかは、わかりませんが、

江戸時代以前の石垣を堪能出来ます。

この辺りが、黒金門跡。

案内。

伝長谷川邸跡

黒金門跡の先を右に行けば、二の丸、

左に行けば、

織田信雄公四代供養塔がある

伝長谷川邸跡となります。

まずは、ここを左へ・・・。

入口は少し狭くなっています。

織田信雄公四代供養塔。

右から、初代信雄公、

四代、信武公、

三代、長頼公、

二代、高長公の供養塔。

一説には安土城に火をかけたのは、

織田信雄という話もある中、

何故ここに供養塔があるのが、

少し不思議な気がしますが、

沢山いた信長の子息のうち、

江戸時代に大名として、

明治維新まで存続したのが、

信雄の系統だけという事実を

今春、兵庫県柏原(かいばら)の

織田神社参拝時に知っていたので、

やはり「生き残ったものの特権」?

そんな事が、あるのかも知れないな~

なんて思ってしまいました(笑)

二の丸へ

二の丸の一角には「信長廟」がありますが、

そこは、天主跡の後(笑)行くことに。

二の丸の石垣。

角は、初期の算木積みですね。

さらに石段。

ここに置いてあるのが、仏足石。

お釈迦様の足跡を表現した石のことで、

安土城の石垣から見つかったものだと

書かれています。

安土城築城で使ったという事は、

室町時代かその前のものかも?

またまた石段を上がります。

護國駄都塔。

天保十三年(1842年)建立。

何のためのものかはわかりません。

隣の大石。

天守台の石垣。

角は、二の丸の算木積みよりも

さらに古い積み方ですので、

こちらは安土城築城当時のままの

石垣かも知れません。

天守台石垣その2。

本丸

天守台石垣の下にある広場が、

本丸の跡になります。

案内。

規模の大きさなどからして、

ここにあった本丸御殿は、

信長が天皇を迎えるための

「行幸御殿」だったのでは?

そう書かれています。

本丸御殿跡は千畳敷と言われています。

千畳敷から見た三の丸の石垣。

天主跡

ここからいよいよ天主跡へ。

本丸取付台跡へ。

本丸取付台跡から石段で、天主跡へ。

お~見えて来た!

ここに建っていたのか~!

案内。

土が削られ、石垣も崩れていて、

天主跡は築城当時のものより小さく、

実際の規模は、

今見えている部分の

2倍半の大きさだそうです。

分かりやすい絵図があるので、

想像出来るのがいいですね。

天守台から見た景色。

霞んでいますが、なかなか良い眺めです。

ここからさらに10階建てのビルの

屋上と同じ位の高さが、

天主最上階ですから

信長もさぞかし天下を取った気分に

思い切り浸っていた事でしょう!

あまりにも浸りきって、

本能寺では油断したのかな?(笑)

天主礎石群。

動画も撮ってみました。

焼け跡

案内を見ていたら天主消失時の

焼けた石があると書かれていたので、

その石を捜索・・・。

お~確かに石が焼けてます!

一瞬、令和二年から天正十年に、

タイムスリップした気持ちで、

テンション上がりまくりですよ(笑)

(後編へ続く)

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください