会津若松城(鶴ヶ城)(7)

 

ならぬことはならぬのです

藩校に入る前の

会津若松藩士の子どもたちには、

会津武士とはこうあるべきだという

「什(じゅう)の掟」というものが、

あったそうで、

これが、よく聞く

「ならぬことはならぬのです」という

フレーズになっています。

そして、

戊辰戦争で敵対した

薩摩には「郷中教育」という

これまた

素晴らしいものがありました。

しかし、

高度な教育を受けた両者は、

殺し合ったのです・・・

会津若松城を巡っていると、

「人の数だけ正義がある」

こんな言葉が頭を駆け巡ります。

西中門

西出丸から続く道にあるのが

西中門です。

天守が見えると、

テンション上がりますね!

まるで江戸城並みの

立派な切り込み接ぎの石垣。

枡形内部。

お〜天守〜(笑)

「はるか」

中西門を入ると

すぐ見えてくるのが、

2013年の大河ドラマ

会津戦争を舞台にした

「八重の桜」で主演した

綾瀬はるかさんお手植え(多分)の

「はるか」という八重桜です。

綾瀬さんの

桜に込められたメッセージが

感動的です・・・

後半を抜粋します。

「子どもたちの成長とともに

いつか立派な花を咲かせ、

入学式や入社式など新たな門出を迎えた

みなさんを祝福してください。

福島の復興、みなさんの思いが

実を結びます様に、

心より祈念しております。」

10年経った今、

この木は素晴らしい花を

咲かせてくれていますよ!

この辺りの他の桜は

既に散っていましたが、

これだけは

満開を維持していたのです。

花びらのアップと天守。

綾瀬はるかさんの思いが、

僕たちにも通じたのかな?(笑)

鐘撞堂(かねつきどう)

西中門の上には、

鐘撞堂があります。

雁木は登れませんが、

別の歩道を使って近くまで行けます。

鐘撞堂。

案内を書き出すと

以下になります。

「時守を置いて昼夜時刻を

城下に報じていた堂で、

その鐘は延享4年(1747)

若松の鋳工

早山掃部介安次の作として知られ、

鐘の撞き方は江戸流であった。

戊辰の役(1868)では、

ここに新政府軍の砲火が集中し、

時守が相次いで斃れたが、

開城の間際まで正確に時を報じ、

大いに味方の士気を鼓舞した。」

鐘撞堂から見た西中門。

近くで見つけた妻好みの老木。

「枯れそうで枯れない凄い生命力」。

付近から見た天守。

なかなか、

見映えしますな〜!

鐘楼堂下にある電話ボックス。

頭には「鐘」が装備されています!

廊下門

次に蒲生氏郷時代には、

大手門だった、廊下門へ。

裏門(蒲生さん時代は表門)から

廊下門へ。

廊下門内部側。

枡形内部を外側から撮影。

枡形を俯瞰。

廊下橋。

廊下橋を俯瞰。

二の丸から見た廊下門(橋)

石垣の近影。

ここは20mくらいの

高石垣で、打ち込み接ぎなので、

積まれたのは、

加藤さんの時代でしょうか?

二の丸。

表門(鉄門くろがねもん

次に本丸に戻り、

通称、鉄門と呼ばれる表門へ。

干飯櫓近くから撮った表門。

案内を書き出すと、

以下になります。

「帯郭から奥御殿に通じる表門で、

北向きの多聞櫓城門である。

扉や柱が鉄で包まれていたことから

鉄門の名がつけられている。

門の石垣の工法は

「切込ハギ」と呼ばれる

積み方で、四辺形に加工した石を積む

巧みな工法となっている。」

明治初期の写真。

現在の表門(本丸側)。

本丸から帯郭へ。

表門(帯郭側)

ここから見る天守も

カッコいいな〜!

440年位ず〜と

踏ん張っていますよ!

蒲生氏郷さんの

野面積みの石垣。

上杉謙信公仮廟所跡

表門のすぐ西側にあるのが、

上杉謙信さんの仮廟所跡です。

案内。

「上杉景勝が会津に転封となり

春日山城からここに改葬。

その後、米沢へ転封となり、

再度、改葬された」

このように書かれています。

謙信公の御霊を慰めるかのように

ここは桜の花びらで

埋め尽くされています。

合掌・・・。

 

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