明智城(岐阜県可児市)前編

 

明智城はどこにあった?

歴史というものは、

真実は一つではありません。

後世になって、いろんな説や、

脚色がなされて、

真実とは違って来る事もありまが、

研究者でもない僕たちは、

「こうだったのかな?」

「ここかも知れないが、ここでOK」

くらいの軽い気持ちで旅しています。

明智城は、同じ岐阜県でも

可児市と恵那市に比定地があり、

可児市の明智城について、

Wikipediaでは、

「康永元年(1342年)

美濃源氏の流れをくむ

土岐頼兼(下野守)が

「明智」と改名してこの城を築き、

その後約200年の

間明智氏代々の居城として栄えた。

現在の地名で言えば

岐阜県可児市瀬田長山にある。」

こう書かれています。

ここでOKかな(笑)

明智城へ

明智城は山城とはいえ、

どちらかと言えば平山城に近く、

僕たちが訪問するには、

丁度よい(笑)お城です。

明智城跡散策路マップ。

こちらも詳しく分かりやすい案内ですね。

ここに掲載された明智城の見所の、

ほぼ全てを巡ることが出来たのは、

花フェスタ記念公園の

大河ドラマ館でいただいたパンフレットと

このマップのお陰です。

ここからお城へ。

なんと、ラッキーなことに、

明智氏の家紋、

「桔梗」が咲いていて、

気分はもはや光秀です(笑)

3D画像付き(笑)の案内。

先程の平面図とともにこれがあると、

実にわかり易くて有り難いですね。

大手門~本丸

大手門から本格的な登山・・・

ではなく、ハイキングコース的な

散策路に入ります。

大手口跡。

こんな案内が随所にあって、

至れり尽くせりの明智城です。

中の丸と切り岸。

優しい光秀さん(笑)

疲れを癒やしてくれる

ユーモアに拍手ですね。

本丸曲輪

光秀に励まされて、本丸に到着。

まず目に入ったのが、この七ツ塚。

確かに盛り土された塚が七つあります。

Wikipediaに書かれた

「弘治2年(1556年)9月19日、

稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受け、

明智城代明智光安(宗宿)は

弟光久と一族の溝尾庄左衛門、

三宅弐部之助、藤田藤次郎、

肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、

森勘解由ら870余人を集めて籠城したという。

しかし義龍軍は3700余の軍勢で

2日間にわたり攻撃を行う。

光安は弟光久と自刃し、

妻妾も落城前に自刃したという。」

ここに出てくる七人の名前です。

馬防柵

明智城碑にも

斎藤義龍により落城と書かれています。

明智城址碑。

令和元年建立の「明智城之記」。

明智光秀像

大河ドラマ館で知った、明智光秀像が

本丸の中心部にあります。

今年(令和2年)の

6月13日に完成したばかりで、

まるで僕たちの訪問に合わせて

作ってくれたかのようですね(笑)

お~見えてきた!

いきなりのツーショット(笑)

明智光秀博覧会で見た、

ミニチュアと同じポーズです。

こちらが、ちっちゃい明智光秀像。

鉄砲を持っている

武将の像というのは初めてです。

このデザイン、ホント素晴らしい!

鉄砲には、さり気なく桔梗紋も入っていて、

細部にもこだわっているのが、

また泣けます(笑)

後ろ姿にも隙がありません。

この後、近くの展望台へ行ったのですが、

それまで曇りがかっていた空が、

みるみるうちに晴れ渡ったので、

もう一度、光秀像に引き返して撮影したのが、

こちらの一枚です。

水色がイメージカラーの明智光秀公、

僕たちをさらに歓迎してくれたんですね!

(後編へ続く)

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください