備後護国神社(2018年初詣の旅)(広島県福山市)

 

福山城周辺は神社だらけ

福山城の北側は神社のメッカ(笑)

昨日書いた、

福山城内敷地にある三蔵稲荷神社はじめ、

今回の備後護国神社、

福山総鎮守の福山八幡宮、

福山城の鬼門、

北東を抑える艮(うしとら)神社、

この全てが福山城から

徒歩10分圏内にあるのです。

備後護国神社へ

三蔵稲荷神社の参道から徒歩1分(笑)

備後護国神社の南側の入口があります。

ここは元々、福山藩主の

阿部正弘公を祭った、

阿部神社という名前の神社で、かつては

ここが正面の参道だったようです。

御由緒と御神徳の案内。

阿部政弘公って凄い人でした〜!

日米和親条約締結した人だったとは!

ここには書いていませんが、調べてみると

東京のお台場(砲台を設置した陣地)を

作ったのもこの人なんですね。

そのお台場の存在で、

ペリーもビビってしまい

東京湾に入って来れなかったそうです。

余談ですが、そのお台場に設置された大砲は

佐賀藩が作ったもので、当時、幕府よりも

最先端技術を持っていた佐賀藩は、

はっきり言って、凄い!

神門の向こうには楠がそびえ立っていて

とてもいい雰囲気の社叢です。

神門の表の神額には

「備後護国神社」

そして、神門の裏側(神社本殿側)には

「勇鷹神社」(いさたかじんじゃ)

の神額があります。

この名前は福山藩主阿部正精(まさきよ)が

神社を1812年創建した時の名前で、

阿部家の家紋が「鷹の羽」だったことに

由来しているのかも知れません。

ということは、創建時からの神額?

だとすれば凄いですよね!!

木々に囲まれた木漏れ日の中、

階段を上っていきます。

途中右手に神馬が見えます。

こちらは剣豪、宮本武蔵が

腰掛けたと言われる「宮本武蔵 腰掛石」

武蔵が、藩祖水野家との繋がりで

福山を訪れた際、武蔵が腰掛けた石と

伝わっています。

拝殿が見えて来ました。

しかし、ここで、改めて正面に戻って

参拝するのが僕の流儀(笑)

阿部神社時代の昔の表参道(今来た参道)を

堪能した後は、

現在の表参道から参拝します。

こちらが西側にある現在の表。

階段を下りて、また上ります(笑)

護国神社らしい雰囲気ですね!

「社神國護後備」と戦前の書き方である

右から左へ書かれた扁額です。

この扁額だけは

戦前に作られたのもなのでしょうか?

わかりません(笑)

ここから階段を上って

上の御社殿に向かいます。

が、その前に

階段下にはいくつかの慰霊碑があったので、

英霊の皆様にまずはご挨拶です。

左は陸軍少年飛行兵戦没者、

真ん中は、硫黄島での戦没者、

右はミンダナオ島での戦没者の慰霊碑。

マリアナ方面戦没者の慰霊碑。

満州開拓で亡くなった方々の「拓魂碑」

階段の真ん中を空けているのは、

英霊達(神様)の通り道?

だからでしょうか…

僕にはそう感じられました。

拝殿にて参拝。

左が拝殿、右が本殿。

真横からも撮影。

この後、境内を散策。

安産祈願の像。

石像を撫でると、ご利益があるそうです。

次に、石像を発見。

こちらの像の台座には、

「阿部正弘像」

「合格就職成就」

と彫ってあります。

何だろうと思い説明を読むと…

何と、これは

石像の下を潜るとご利益に預かれるという

言わば、小さな鳥居くぐりみたいなもの。

鳥居は見た事ありますが、

石像の下を潜るのは初めて見ました!

最後に、御朱印をいただき参拝は完了。

印は二種類押してあり、

一つは、備後護国神社のもの

もう一つは、

阿部神社と勇鷹(いさたか)宮のもの。

この神社の歴史そのものを

押印してもらった感じで、

有り難いことですね!

ここからは、また歩いて福山八幡宮に

向かいますが、

神社を出てすぐ見えた光景がこちら。

お〜福山城の天守が見てくれてる〜!

いや、見えた〜のかな(笑)

今日の癒し

阿部正弘像石像潜りを実践する妻。

サービス精神旺盛で、

僕のリクエストに即答えてくれるのに

毎回本当に癒されています!

しかし、

受験も就職も関係ない妻でした(笑)

 

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