母成峠・東軍殉難者埋葬地(福島県)
心情としては会津だが・・
今回の旅の主目的は、
戊辰戦争において、
婦女隊として薙刀をふるって戦い、
会津城下で戦死した
中野竹子の墓に参る事でしたが、
YouTubeで「母成峠の戦い」を見て、
戦場に散った会津藩士達の
埋葬地があることを知り、
僕たち二人は、
「もう行くしかないね!」
と急遽旅程に組み込んだのです。
というわけで、
心情としては会津藩側ながらも
新政府軍側の行軍ルートを辿るようにして
郡山市と猪苗代町に跨る母成峠へ。
当時は徒歩で大砲などを担ぎ、
苦心惨憺したであろう道を、
僕たちは車という文明の利器を使い、
快適な移動が出来るのも、
先人達がバトンを繋いでくれたお陰。
命を落とし、傷ついた両軍の方々に
敬意を持っての訪問です・・
母成峠へ
まずは相棒(レンタカー)と合流。
バジェットレンタカー郡山駅東口店、
なかなかフレンドリーで良いお店です。
郡山〜磐梯熱海までは高速道路でワープ。
その後、一般道で母成峠を目指します。
高速を下りて少し行ったところで、
小さな富士山のような山が気になり、
一旦車を停めることに。
後で調べると、山の名前は、
離山(はなれやま)。
通称「おにぎり山」と
言われているとか(笑)
この山を新政府軍の指揮官、
板垣退助も見たのかな・・・
母成峠古戦場
おにぎり山から15分程で、
母成峠古戦場に到着。
駐車場横の案内や石碑。
案内を要約すると
以下になります。
「母成峠の戦いは、
慶応四年(1868)八月二十一日
圧倒的兵力の西軍(新政府側)と
東軍(会津藩側)との間に戦われ、
西軍三千に対し東軍は八百の戦いは
衆寡敵せず、
東軍は猪苗代方面に敗退した。
この戦いに散った東西両軍の兵士
百余名の霊を弔うと共に
この戦跡を永く後世に伝えるために
この碑を建設するものである。」
石碑の左には東軍・西軍の
指揮官クラスの名前が刻まれています。
東軍の大鳥圭介は、
現在の兵庫県の生まれで、
会津降伏後も箱館戦争まで、
旧幕府側としてしぶとく戦い
後年、明治政府に入った人。
軍のトップが会津藩士じゃなかったのが、
ちょっと意外な気もします。
西軍の板垣退助は昔の百円札の顔。
これは僕たち世代以上しか知らないか?(笑)
世代を超えてみんな知ってるのは、
「板垣死すとも自由は死せず」で有名な
自由民権運動の人でしょう。
石碑向かって右と後方。
かなり年季が入った広域マップ。
戊辰戦争 会津母成峠陣跡(遺構)の案内。
詳しくて分かり易い案内図ですね。
上杉景勝時代に作られた防塁に、
戊辰戦争時に東西両軍の塹壕が
付け足されているそうです。
遺構は時間の関係上、
遠望のみで終了。
東軍殉難者埋葬地
東軍殉難者埋葬地と慰霊碑は、
駐車場から少し下った
森の中にあります。
県道を徒歩で移動。
満開のヒナギクの花が、
案内看板に寄り添うかのように
咲き乱れています・・・
ネットで調べると、
ヒナギクの花言葉は、
「希望」「平和」「美人」
「純潔」「あなたと同じ気持ち」。
なんだか母成峠で亡くなった
会津藩士の気持ちに
寄り添うかのような
花言葉ですね・・・
さらに先へ。
県道24号線の高架下を通過。
使わないけど(笑)駐車場に到着。
森の奥へ。
慰霊碑が見えてきました・・・
到着。
慰霊の地を動画でも撮影。
そして、埋葬地へ。
安らかにお眠りください・・
埋葬地の案内を
書き出すと以下になります。
「慶應四年八月二十一日、
母成峠の戦いの東軍戦死者の遺体は
当時西軍のきびしい命令により
埋葬を許されず戦後暫くの問、
放置されたままになっていたが
これを見かねた近くの人々が西軍の
眼をぬすんで遺体を集め仮埋葬した。
その後この地は雑草に覆われて
その所在がわからなくなっていたのを、
百十余年後の昭和五十三年六月二日
猪苗代地方史研究会の手によって
発見された。
その後子孫を中心として
母成弔霊義会を結成し毎年感霊祭を
執り行ってきたが、
昭和五十七年十月六日
東軍殉難者慰霊碑建設と同時に
長く保存することにしたものである。」
各戦地に於いて、
東軍の死者が放置された話しは
枚挙にいとまがありませんが、
真実はどうあれ、
尋常な気持ちではない戦場とは、
悲しいかな、
そんなものなのでしょう・・・
埋葬地を一周・・・
案内柱は最近のものなんですね!
「ずっとあなた方を忘れていませんよ」
こんな気持ちが伝わってきます・・・
次に慰霊碑を参拝。
裏側には戦死者一人一人の
名前が刻まれていますが、
お名前には敬意をはらいつつ、
ここでは藩名と死者数のみを
記してみます。
「会津藩三十八名、二本松藩八名、
唐津藩六名、新撰組六名。」
ここでの注目は、
やはり唐津藩でしょう!
奥羽越列藩同盟でもない、
はるか遠い九州の唐津藩が、
何故、母成峠で戦ったのか?
GoogleのAIによる概要には、
以下のように書かれています。
「唐津藩は、戊辰戦争において、
新政府軍と対峙した最後の藩主
小笠原長行が徹底抗戦を唱えたことで
苦しい立場になりました。
戊辰戦争では、国元の唐津藩が
新政府軍に恭順することを決める中、
長行は徹底抗戦を唱えて
藩と関係を断絶しました。
仙台で榎本海軍と合流し、
箱館戦争に参加しました。
長行には23名の唐津藩士たちが従い、
蝦夷へ渡航の際、
彼らは新選組に入隊しています」
そんな事情だったのか・・と納得。
戊辰戦争では、
東軍西軍どっちにつくか
議論が二分した藩は多く、
郡上藩の凌霜隊の悲劇など、
心が苦しくなるものばかりです・・
戦闘の経緯など。
戦況図を見ると、
会津藩側は幾重にも
守りを固めていたようですが、
新政府軍の最新兵器と
圧倒的人数の前には退却するしか
なかったのですね・・・
西郷頼母・歌碑
最後は西郷頼母の歌碑へ。
歌碑と案内。
「なき魂も
恨みは晴れてけふよりは
ともに長閑く天かけるらん」
「この和歌は会津家老西郷頼母が
明治二十二年四月二十四日、
会津若松市阿彌陀寺で、
会津藩殉難者慰霊祭が、
晴れて執行出来るようになった
喜びを詠んだ和歌で、
西郷家で自刃した
二十一人のうち六名までが、
小森家の血縁につながる
人々であったこと、
又.小森一貫斉が
母成峠で戦ったことに思いを馳せ、
一貫斉の曽孫である小森昌子さんが
殉難者への鎮魂のため
昭和五十九年九月、
ここに建設したものである。
母成弔霊義会」
このように案内されています。
新政府軍に辱めを受けずとして、
西郷頼母の母、妻、娘5人を含め、
二十一人が自刃した後も
生き続けた西郷頼母・・・
その心中は如何ばかりだったのか・・・
駐車場へ
埋葬地、慰霊碑の参拝を終え
再び駐車場へ。
ここが激戦地だったとは
想像できないほど、
のどかで癒される場所です・・
一応これは撮ってます(笑)
今日の自動販売機
母成峠から会津若松方面に行く途中、
自動販売機に立ち寄りました。
な、なんと、
じぇ〜んぶが100円ポッキリ!
思わぬラッキーに
大喜びしながら麦茶を一本GET。
こりゃ〜いい旅になりそうだ〜(笑)