智恩寺(京都府宮津市)前編

 

日本三文殊

訪問して初めて知ったのが、

ここ智恩寺が日本三文殊の

一つだということです。

智恩寺の案内を抜粋すると

「ここ智恩寺は

「知恵の文殊」とよばれ、

またこのところの名から

「切戸の文殊」・

「久世戸の文殊」とよばれて

古くからの信仰の厚いところであった。

寺伝によれば、その開創は千余年の昔、

延喜年間という。

世に三文殊と称するのは、

ここ知恩寺に加えて、

奈良県桜井市の阿部院・

京都市左京区金戒光明寺こんかいこうみょうじ

(あるいは、これに代えて、

山形県高畠町大聖寺)の

三寺の文殊のことである。」

このようになります。

訪問時は時間を節約するため

案内文は斜め読み程度なので(汗)、

三文殊のくだりには

全く気づいていなかったのですが、

実はこの翌日の滋賀県では

朝から雨が強く降り、

旅の目的の一つだった

観音寺城などを止め、

全て予定変更し、

たまたまネットで見つけた、

京都の金戒光明寺に行っていたのです。

まさか知らないうちに

三文殊のうち二文殊を

一回の旅でお参りしていたとは、

ビックリですね。

これも文殊菩薩様の

お導きなのでしょう!

三門(山門)

天橋立ビューランドで、

絶景を楽しんだ後、

天橋立の南側に鎮座する智恩寺へ。

参道。

三門。

Wikipediaによると

1767年(明和4年)9月上棟で、

智恩寺のサイトには、

「『黄金閣おうごんかく』と称され、

建立されるにあたって

後桜町天皇より頂いた黄金が

名前の由来となっています。」

このように記されていて、

上部の扁額には、

「黄金閣」の文字を確認できます。

三門をくぐって境内へ。

境内側から三門を撮影。

参道右側

ここから参拝に向かうのですが、

正直、見所が多過ぎて、

なかなか参拝までは、

漕ぎ着けられません(笑)

智恩寺には僕が大好きな

古いものが多く残っており、

ここはもう楽園です(笑)

まずは、参道右側の

古い「アレコレ」から。

松林の向こう側へ。

「力石」

以下案内です。

「この石は、

当地文殊に伝わる力石と呼ばれるもので、

祭や集会の余興に この石を持ち上げ、

青年達が力自慢を競ったものです。

(石の大きさ大130Kg

中100Kg 小70Kg)

今では当智恩寺に奉納され

この石に触ると不思議に力と知恵が授かると

今に伝わっています。

どうぞご自由にお触りください。」

「豫科練供養等」にお参り。

宝篋印塔とお地蔵様。

「石造地蔵菩薩立像」

案内は以下になります。

「ここには、南に並んで二躯、

その北に離れて一躯の、

等身の地蔵菩薩像が立っている。

いずれも右手を握って錫杖を執る形を示し、

左手には宝珠をささげている。

二躯が並ぶ内の向かって右側のものは、

最も保存状態が良く作風的にも優れている。

背面の銘文によると、

応永三十四年(1427)に、

三重郷(現中郡大宮町)の、

大江越中守(法名永松)の発願により

造立された一千体地蔵の内のひとつとなるが、

他に同類の作は知られていない。

離れて立つ北の一躯は、

斜めに流れる体部衣文の的確な彫法などに、

優れた技法をみせるが、

頭部を失い現在は後補のものと替わっている。

背面明文から、

三上因幡守(因州太守沙弥祐長)の発願により、

永享四年(1432)に

造立されたことがわかる。

また南のもう一躯についても、

両手先他に欠損を受けているが、

他二躯と制作年代が

隔たるものではないであろう。

これらの地蔵像については、

雪舟筆の国宝「天橋立図」に、

それらしい姿が描かれており、

知恩寺の歴史とも関わりが深い。」

お地蔵様に参拝。

右側、応永三十四年造立のお地蔵様。

背面。

600年もの長い年月を経ても、

風化は最小限で、

ここまで文字が読めるのは、

やはり

このお地蔵様が伝えたかった

「何か」があるのかも知れません。

左側、永享四年造立のお地蔵様。

こちらも文字が確認できます。

離れて立つ北の一躯。

歴代住職墓所に参拝。

和泉式部宝篋印塔。

「石造宝篋印塔(鎌倉時代)」

案内を書き出すと

以下になります。

「この石塔はいつのころからか

和泉式部の歌塚と伝えられている。

丹哥府志たんかふし」によれば、

丹後守藤原公基が日置金剛心院において、

和泉式部が書捨てた和歌を持ち帰り、

なみだの磯(涙が磯)に埋めて

鶏塚と呼んだという。

その反古の一首が、

「いつしかと待ちける人に一声も

聞せる鶏のうき別れかな」

その後明応(1492〜1501)のころ、

砂に埋まった塚を掘り出して

文殊堂の傍に建てたのが

今の歌塚であるという。

彼女が丹後に下って詠んだ

歌のいくつかは知られているが、

前記の歌が丹後において

詠まれたものかは分からない。

丹後において

各処の和泉式部伝説のあるなかで、

これもそのひとつとしてうけとればよい。

塔は堂々として基礎の格狭間や、

塔身の薬研彫の四方仏の種子、

笠石四隅の突起等に

時代的な特徴がみられる。」

和泉式部の伝承は、

日本全国津々浦々にありますが、

ここもその一つですね。

案内文の

「各処の和泉式部伝説のあるなかで、

これもそのひとつとしてうけとればよい」

この緩い感じ、いいですね〜!

なかなかの名文です。

(続く)

 

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