2021/01/01
達磨寺(奈良県王子町)後編
お墓が複数ある意味
戦国の梟雄と呼ばれる松永久秀、
この人のお墓、供養塔などは、
奈良、京都に数箇所あるようで、
その中の一つが達磨寺です。
梟雄とは、
「残忍かつ勇猛、悪者の親分」
みたいな意味ですが、
生前、松永久秀が、単なる梟雄ならば、
墓や供養塔が各地に存在する事に、
少し違和感があります。
やはり、民に「慕われていた」とう
プラスの側面があったのでしょう。
時の支配者(政権)の都合で、
後付で悪者にされる人は多いもの、
松永久秀もその一人かも知れません。
松永久秀の墓
数多くの文化財を見た後、
ようやく主目的だった
松永久秀のお墓へと向かいます。
この突き当りが、
目指す松永久秀のお墓です。
専用の参道が設けられていますね。
参拝。
新しい生花が供えられています。
案内には、
「松永久秀が、天正5年(1577年)
10月10日信貴山城で自害した後、
筒井氏がその亡骸をここに葬ったという。
墓石に「松永弾正久秀墓
天正五年十月十日」
の文字があるというが、
現状は風化している」
このように書かれています。
敵対して憎み合っていたと言われる
筒井氏が葬ったというのが、
武士道というものなのでしょうか・・・。
ボランティアの方が作られた案内板。
奈良市の多聞山城も紹介されていますね!
片岡八郎・春利の墓
松永久秀のお墓と並んで建つのが、
片岡八郎・春利の墓です。
ここにも参拝。
片岡八郎は後醍醐天皇の皇子、
大塔宮護良親王を身を挺して助けた人で、
大正時代、国家に尽くしたものとして、
正五位が贈られています。
また、片岡春利は戦国期、
松永久秀と戦い、攻略され、
後病死したと書かれています。
石造雪丸像
次は、聖徳太子の愛犬、雪丸の像へ。
正面。
参拝・・・というかご挨拶かな(笑)
真横から。
案内。
「雪丸は人の言葉が理解でき、
お経が読め、達磨の墓
(本堂下の達磨寺3号墳)を
守るために、
自分を本堂の北東に葬るよう
遺言したという。
雪丸像は、もとは本堂の北東にある
達磨寺1号墳の
石室近くに祀られていた。」
このように書かれています。
北東は艮(うしとら)と言い、
「鬼門」とされる方角ですから、
雪丸が鬼門を護っていたのですね!
そして、今は裏鬼門と言われる、
未申(ひつじさる)(南西)に
祀られていますので、
今もなお雪丸は、
護り神、いや、護り犬として
活躍中という訳なのです(笑)
達磨寺旧本堂瓦製露盤
屋根付きで大切に保管されているのが、
旧本堂の一部分です。
ちゃんと花も供えられています。
案内を抜粋すると、
「露盤の部分に銘文があり
江戸時代の元禄5年(1692)、
法隆寺の瓦師によって
作られたことがわかる」
このように書かれています。
九重達磨塔
次は、九重達磨塔へ。
案内には、
「灯籠や五輪塔の台石を九重に重ねて
塔にしたもので、塔身には、
「法華塔」の文字が刻まれている。
もとは本堂の西に接して建てられ、
地下に石室を作って大量の
一字一石経を納めていた。
現在は永代供養の石塔として
祀られている」
このように書かれています。
達磨寺中興記石幢
本堂裏側にあるのが、
達磨寺中興記石幢です。
案内。
「石幢とは、八角石塔のことで、
室町時代の文安5年(1448)に
建てられた。
石幢には寺が荒廃した後、
室町将軍らの力添えによって
復興したことを記した
「達磨寺中興記」の
文章が刻まれている。
石幢の地下からは、
嘉吉2年(1442)銘の
石碑などが出土した。」
このよに書かれています。
達磨寺中興記石幢。
国指定重要文化財となています。
石幢の地下から出土した石碑かな?
問答石
名前からして、
石が喋るのを想像しましたが、
ちょっと違いました。
案内。
「聖徳太子と飢者に身をやつした
達磨大師が出会い、
歌を詠み交わした場所と伝えられる」
こちらが達磨石。
ここから南に10m行くと・・・
太子石。
何となく二人の問答が
聞こえてくるような気が・・・(笑)
達磨寺方丈
奈良県指定文化財の「方丈」が、
来年の落慶法要を目指して、
鋭意改装中でした。
方丈入口(通行止め)
親切にも写真付きの解説があります。
左右非対称の屋根は珍しいですね。
うろこ雲
境内の散策が終わる頃、
ふっと空を見上げると、
綺麗なうろこ雲が・・・
僕たちを松永さんとお寺さんが、
見送ってくれているのかな(笑)
うろこ雲バックにツーショットで参拝完了。
今日の癒やし
方丈の塀横の金木犀。
心地よい香りに癒やされました。