渋沢栄一の墓(谷中霊園)

 

招魂碑

渋沢栄一(澁澤榮一)と言えば、

血洗島(ちあらいじま)。

大河ドラマで、

この地名を繰り返し聞いた結果、

頭に刷り込まれています(笑)

そんな渋沢さんの故郷、

埼玉県深谷市血洗島を訪問したのは

2年ほど前。

中の家なかんちと呼ばれる邸宅の裏には、

平成二十六年(2014)まで、

谷中霊園の渋沢家墓地に建っていた

両親の招魂碑が移設されていました。

(妻は忘れているはず・・笑)

母、えいの招魂碑。

父、渋沢市郎右衛門の招魂碑。

この招魂碑参拝から2年かけ、

ようやく子供さん(笑)のお墓に

お参りする事ができました。

これも御両親様の

お導きがあったのかも知れません。

中央東広場

渋沢家の墓域はかなり広かったようで、

その一部が返還され、

現在では中央東広場として整備され、

墓参する方々の

憩いの場所となっています。

案内図。

渋沢家墓所の前面が広場です。

広場(手前)&お墓(後方)。

広場正面のタブノキ。

澁澤家墓所より伝統的な移植方法

「立曳き」で移植されたタブノキの案内。

「渋沢栄一家墓所」

案内を書き出すと

以下になります。

「渋沢栄一(1840~1931)は、

日本近代の実業家。

天保十一年(1840)、

武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)に

渋沢市郎右衛門、

母えいの長男として生まれた。

幼名は市三郎”のちに、

栄次郎、栄一郎、篤太夫、

篤太郎を名乗り、青淵と号した、

家業の畑作、監玉の製造・販売、養蚕を

手伝う一方で、父から学問の手解きを受け、

その後従兄弟の尾高惇忠から四書五経、

『日本外史』などを学んだ、

安政五年(1858)惇忠の妹千代と結婚。

文久元年(1861)、江戸に出て

海保漁村に入門した。

また千葉道場に入門し、

剣術修行の傍ら勤王志士と

交友を結ぶなかで尊王攘夷に傾倒し、

やがて

高崎城乗っ取りなどの討幕計画をたてた。

しかし、

惇忠の弟長七郎の説得により中止し、

自身は勘当を受けた体裁を取って上京した。

やがて一橋家家臣平岡円四郎からの

推挙を受けると、

一転して一橋慶喜に仕え

家政改革に実力を発した。

慶応二年(1866)、

慶喜の十五代将軍就任に従って

栄ーも幕臣となった。

翌年、パリで開催された万国博覧会に

将軍の名代として出席する

民部公子(後の徳川昭武)の渡欧に随行し、

欧州諸国では先進の思想、

科学技術、社会情勢を見聞した。

明治維新となって帰国すると、

間もなく明治政府に招かれ、

民部・大蔵省では財政政策に取り組んだ。

明治六年(1873)に大蔵省を辞すると、

官僚時代に設立を指導していた

第一国立銀行の総監役

(のちに頭取)に就任した。

特に「論語』を通じた経営哲学

「道徳経済合一説」の考えを基に、

近代日本の資本主義的経営の

確立と指導に邁進し、

生涯に約五〇〇もの企業の

設立・育成に関わり、

「近代日本経済の父」とも称される。

また、約六〇〇の社会事業や文化事業、

民間外交にも積極的に参画しており、

近代日本における功績は計り知れない。

区内にもそうした活動の場があり、

現在までその記憶が

継承されているものも多い。

本嘉所の成り立ちは、

区の歴史を考える上でも

重要であることから、

令和三年(2021)三月に

台東区史跡として

台東区区民文化財台帳に登載された。

令和四年三月 台東区教育委員会」」

渋沢さんの生涯を簡潔にまとめた

素晴らしい案内ですね!

大河ドラマのストーリが、

そのまま浮かんで来た感じがしました。

お墓へ。

真ん中の花が飾ってあるのが、

栄一さんのお墓で、

両脇は親族のものでしょうか、

不明です。

参拝。

青淵せいえん澀澤榮一墓」と刻まれています。

栄一さん目線からのタブノキ。

こちらは、冒頭に書いた

血洗島の「中の家」の庭にある

若き日の栄一さんの銅像で、

この左端にそびえるのが

「タブノキ」なんですね!

栄一さんがいつでも

故郷を思い出せるようにと

お墓の目の前にタブノキを

移植したのでしょう!

ちょっと感動です・・・

 

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