延暦寺・東塔(阿弥陀堂・大講堂)
六所宝塔
伝教大師最澄さんが、
国家の安泰と仏教の興隆、
さらに人々の幸せを願って
発願した全国六ヶ所の「宝塔」と
いうものがあります。
比叡山には東塔と西塔の二つ、
そして関東に二つ、
西(九州)に二つの全部で六ヶ所ですが、
当時の姿をとどめているものは、
一つもありません・・
こちらは、
境内の六所宝塔についての案内で
やはり絵図があると
めっちゃ分かり易いですね!
この中で、今回訪問するのが、
延暦寺の東塔(とうどう)地域の
再建された東塔(法華総寺院東塔)です。
阿弥陀堂・東塔
戒壇院の次は、
現代に再建された阿弥陀堂と
東塔(法華総寺院東塔)へ。
阿弥陀堂と東塔は、
東塔地域の西側、
地図では一番上になります。
こちらが絵看板に描かれた
かつての姿ですが、
復元された現代の姿も、
かなり似た雰囲気になっています。
西塔・横川(よかわ)との分岐点を左へ。
石普段下から。
既に阿弥陀堂の頭が見えてます。
阿弥陀堂。
案内を超訳すると
「昭和十二年(1937)、
比叡山開創千百五十年を記念して建立。
全国信徒各家の御霊を祀理、
日々不退に念仏回向する場」
このようになります。
次に、左隣に立つ東塔へ。
東塔。
「信長の比叡山焼き討ちで
焼失して以来400年、
昭和五十五年、
天台宗徒と、
佐川急便グループ創始者、
佐川清氏の寄進により再建された」
このように書かれています。
現在の東塔は、
こちらの鎌倉時代初期の
古絵図を参考に
再建されたと書かれています。
東塔と阿弥陀堂のツーショット。
鐘楼
この寺域の建物では、
唯一(多分)江戸時代のものが
鐘楼です。
案内によると
「寛永十一年(1634)に
建て替えられたものですが、
はじめは山麓の講仏堂の鐘楼でしたが、
講仏堂が大講堂として移された時に、
現在の地に移設されました。」
このように書かれています。
寛永十一年と言えば、
生まれながらの将軍、
徳川家光の時代。
もしかすると、
「大講堂も延暦寺に相応しい
立派な建物にするんだぞ!」
なんて命令が下ったのかも
知れません。
大講堂
阿弥陀堂・東塔から大講堂へ行く途中、
延暦寺(天台宗)のスローガン的な
文言が刻まれた大きな塔があります。
「一隅を照らそう」
反対側。
「照千一隅此則國寶」。
読み下すと
「一隅を照らす 此れ則ち国宝なり」。
簡単に言うと、
「自分が置かれた小さな場所で、
一所懸命に生き、光り輝くことこそ、
国の宝である」
こんなことがネットには書かれています。
まずは「自分」、
そしてその上で「他人」の幸福にも
つながるという
最澄さんが言われている
「自利利他」にも通じる言葉ですね。
やはりまずは、
「自分」が輝かないと!(笑)
大講堂に到着。
青銅製の燈籠。
徳川家の葵紋が彫られていますので、
やはり将軍家からの崇敬も
篤かったのでしょう。
そして、この横の幟立て、
先端が龍の形になっているのです。
指先まで神経が行き届くとは、
まさにこれですね!
大講堂右側から。
菊花の花手水、
癒されますな〜!
時間がないので(汗)表から参拝。
「大講堂【重文】」
案内を書き出すと
以下になります。
「天台座主第一世義真和尚の
建立によるもので、
僧侶が学問研鑽のため論義する場所です。
ことに、慈恵(じえ)大師が始修され、
四年目ごとに行われる比叡山の古儀
「法華大会広学堅義」は、
一人前の天台僧となる為の重要な儀式、
階梯として現在につづいています。
現在の建物は、
昭和三十一年の旧堂焼失後、
山麓坂本にあったものを移築したもので、
堂内には叡山で研修された
各宗派の御開山の尊像が安置されています。」
ここで出てくる慈恵大師とは
延暦寺を盛り上げた功労者、
僧、良源のことですが、
「元三大師」(がんざんだいし)としての
名前の方が、
恐らくメジャーかも知れません。
大講堂の場面が出てくる
吉川英治の「新平家物語」の紹介。
開運の鐘
大講堂の隅っこ、
根本中堂へ行く途中に一際目立つのが、
巨大な鐘楼です。
新しいものでしょうか?
歴史は不明です。
その名も「開運の鐘」。
やはりこれは
撞くしかないか?(笑)
妻のひと撞き。
やった〜!開運ゲットだぜい(笑)
しっかりと開運したところで、
比叡山の象徴的な建物
根本中堂へと向かいます。
(続く)