延暦寺・慈覚大師円仁廟(未到達編)
迷ったからこその出会い
慈覚大師円仁廟へ行くのに、
適切な案内図を見つけられず、
迷ってしまって、
予定外のお坊様の
「お墓参り」をしました。
ところが、
このブログを書いていて、
延暦寺にある境内案内図には、
慈覚大師円仁廟への道も
簡単ながら描かれていた事を
知ったのです。
正直、「あちゃ〜」とも
思いましたが、
迷ってしまったからこそ、
出会えたお墓ですから、
やはり
何かのご縁があったのでしょう!
ルート
事前にどれだけ見たかわからない
Googleマップや先人達の記録・・・
それでもよく分からないまま、
まずは延暦寺会館から法然堂へ。
そこからはひたすら、下山です(笑)
目指すのは矢印の慈覚大師円仁廟。
そして、
僕たちが結果的に歩いたルートが
こちらです。
赤色のルートが本来の最短距離。
青色のルートが間違って下り過ぎた道。
オレンジ色が引き返して登った道です。
聖尊院堂
法然堂から坂本方面へ
登山道を下るのは、
登山好きならば楽勝でしょうが、
僕たちは「辛勝」を
目指すのが精一杯(笑)
遭難した時の
「コールポイント」なるものを発見。
ここって、
そんな危険な山道なんだ・・(汗)
左側にお堂を発見。
ここが聖尊院堂で、
この辺りに「慈覚大師円仁廟」への
道標である石柱があるはずなのですが、
発見出来ず、まずはお堂に参拝する事に。
後に知る事になるのですが、
実は、
この写真の左端に建っている石柱の
「見えない側」に道標は
刻まれていたのです!
これがその道標です。
ここに近寄っていれば、
確認できたのでしょうが、
とにかく円仁廟に行くぞ〜
なんて、焦る気持ちが
そうさせなかったのかも知れません。
正面の石段からお堂へ。
石段を上り切った所の
右側に建つ亀碑。
「薬樹院之碑」の表題の下には、
漢文が刻まれています。
ネットで調べると、
織田信長の比叡山焼き討ち後、
延暦寺の復興に貢献した全宗という
お坊様の顕彰碑のようで、
Wikipediaには、
以下が書かれています。
「比叡山薬樹院の住持であったが、
元亀2年(1571年)に
織田信長が行わせた比叡山焼き討ちに遭い、
還俗して医師を目指し、
曲直瀬道三に入門して漢方医学を極めた。
その後、羽柴秀吉の知遇を得て、
侍医となりながら叡山の弁護にあたった。
天正10年(1582年)、
信長が本能寺の変で斃れると、
秀吉の許可を得て
荒廃した比叡山の再興に尽力した。」
燈籠は真ん中に一つ。
以前参拝した
同じ形式でしたので、
参道真ん中に燈籠一つという配置は
古いお寺に共通するものかも
知れません(あくまでも推測)。
花が飾られ、
手入れの行き届いた厨子。
檀那先徳御廟(檀那院覚運廟)
ここからは、
迷い子状態になった僕たちの顛末です(笑)
聖尊院堂の石段から
さらに急坂を転げ落ちるように
坂本(日吉大社)方面へ。
このままだと
比叡山を下山してしまいそう・・・
そう考えていたところ、
左側にお墓らしきものを発見。
Googleマップで確認し、
ここは、
檀那先徳御廟(檀那院覚運廟)と推察。
迷い子状態ではあるものの、
一瞬それを忘れ(笑)
まずはお参りする事に。
参道脇には小さな
古い石仏が並んでいます。
「檀那先徳御廟」の石柱。
ここに眠られている「覚運」さんを
wikipediaで確認すると
以下が書かれています。
「比叡山で良源に師事して
天台教学を学んでその学名が高く、
東塔檀那院に住して盛んに講説を行った。
良源の勧告により静真・皇慶から
真言密教を学んだ。
宮廷貴族に取り入り、
藤原道長に摩訶止観等を講じ、
一条天皇には法華疏を進講したほか、
道長家に関係する
様々な仏事に関与した。」
全く知りませんでしたが、
元三大師良源さんの有能な
お弟子さんだったという事で、
なんか、
偉いお坊様なんですね!
参拝。
こじんまりした玉垣の中に
お墓を守ように小さな石仏が
安置されている姿、
ほのぼのとした
暖かさを感じます・・・
背後のお墓にも参拝。
改めて参道脇の石仏にもご挨拶。
そして、参道の石段を下り、
さらに坂本方面へ。
歩き始めてすぐ左側に
見えてきた石仏。
こんな辺鄙な場所なのに
綺麗に保たれているのは、
やはり「人が」来る証拠・・・
しかし、
僕たちの目指す
慈覚大師円仁廟は、
いったいどこなんだ?と思い、
Googleマップを確認すると、
なんか離れてきたみたい・・(汗)
ここで先ほどの聖尊院堂まで引き返し、
作戦を立て直す事に。
あ〜今度はめっちゃ急坂を
登らなきゃいけないんだ〜・・・
(続く)