開村紀念之碑(札幌市・発寒)

 

石碑の存在意義

明治八年(1875)に始まった、

琴似(ことに)への

屯田兵入植から遡ること18年、

江戸時代末期の安政四年(1857)、

琴似の隣町、発寒(はっさむ)に移住し、

荒野を開拓した人々たちが

いたことを知りました。

ただし、

「開村記念碑」という

石碑があったから知った訳で、

無ければ、恐らく一生(笑)

知らなかったかも知れません・・

ということで、

改めて「石碑」というものの

存在意義を感じた次第です。

発寒へ

琴似から発寒へは、

車で、あっという間です。

公園緑地の一角に

目指す石碑はあります。

二つ並んだ石碑。

開村紀念之碑

まずは向かって右の開村紀念之碑へ。

碑文のいわれを要約すると、

「安政四年に、山岡主計頭さんが、

永田休蔵さんらと農家17〜18戸を誘い、

ここ「発寒」に住み土地を切り拓いた。

安政四年を発寒の始まりを永く伝えるため、

ここに石碑を建立した。」

このようになります。

「發寒開拓紀年碑」

(実物は全て旧字体で刻まれています)

石碑は三角柱なのであと二面あり、

一つには細かい字で長い漢文が、

もう一つには、

「明治二有六年八月十五日建設」と

刻まれています。

永田休蔵之碑

次にお隣の永田休蔵之碑へ。

この石碑の由来を簡単に書くと

「安政四年に発寒に移住した永田さんは、

その年の十一月、石狩からの帰り道、

冬の海岸で強い風雪により亡くなられた。

大正十四年、発寒屯田移住50年に

その功績を追想し、石碑を建立する。」

こんな経緯からすると

永田休蔵之碑は、

言わば、

「永田休蔵慰霊碑」でしょう。

参拝。

台座前面には発寒に入植した

屯田兵全員のお名前が刻まれています。

この方たちの先人である

永田さんたちの奮闘も

大きな心の支えになったのかも

知れません・・・

左右の側面には寄付者のお名前が

刻まれています。

こちらも寄付者です。

苗字を見ると、

屯田兵の子孫の方も

いらっしゃるようです。

台座の裏側にこの石碑の由来が

漢文で刻まれていますので、

何となくわかる?所を抜粋すると

以下になります。

「永田君休蔵江戸幕府之士也

安政四年・・開拓・・享年四十五」

幕臣だったのでしょうかね・・

きっと立派な人に違いありません。

 

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