鏡神社(奈良市)

 

新薬師寺の鎮守社

神社の案内によると

鏡神社は新薬師寺復興の際、

鎮守社として創建されています。

明治維新後、神仏分離となり

同じ敷地にあった寺社は、

分けられていますが、

両者は全く隣り合っていて、

今でも神仏習合を身近に感じられます。

鏡神社へ

新薬師寺と鏡神社が

いかに近いかがわかるのが、

こちらの写真です。

右が新薬師寺の南門、

左が鏡神社の横参道の鳥居で、

歩くと10歩くらいでしょう(笑)

単に物理的に近いだけでなく、

心情的にも近い事を知ったのは、

摂社に参拝した時ですが、

その話はまた後ほど・・・

 

鳥居正面。

写真撮影の後は、

表参道に回って参拝開始です。

神社の正面。

中に入ると、掲示物が貼られています。

御由緒。

めっちゃ詳しいので、超訳します。

「御祭神の藤原広嗣は、

当時の政治を正そうと

吉備真備、僧玄昉などを

訴えた事が仇となり、

逆賊の汚名を着せられ、

九州の佐賀県唐津あたりで

討ち取られる。

広嗣の死後、吉備真備は九州に左遷、

その際、唐津に鏡尊廟を建てて、

ただしき公の威霊を祀り、

後世、鏡宮と呼ばれる。」

このようになります。

Wikipediaでは、

奈良の鏡神社は、

唐津市の鏡山の麓に鎮座する

鏡神社を勧請したと

書かれています。

かなり以前、唐津市の鏡神社には

夫婦で参拝していますが、

まさか、奈良県とこんな繋がりがあったとは。

また唐津の鏡神社に行かないと!(笑)

幸福しあわせは、向こうからやってくるものではない。

幸福は、自分自身の行いで掴むもの。」

このように題され、

上に<幸せへの道を歩む人>

下に<不幸をつくる人>として

その行動・言動が対比されていて、

「成功する人は、

同時に努力する人である。

努力しない人には、

神仏は決して助けを差しのべない。」

こう結ばれています。

当たり前の事が書かれていますが、

その当たり前が出来ないのが僕(汗)

遅きに失した感じもありますが、

神仏に助けていただけるよう、

<幸せへの道を歩む人>の実践、

励むとしますかね(笑)

拝殿。

参拝。

拝殿と本殿(左奥)

本殿の案内。

「奈良市指定文化財

鏡神社本殿

一間社春日造、檜皮葺

享保十三年(1728)

春日大社本社本殿の第三殿として建立

(第四十六次式年造替)

延享三年(1746)

春日大社の造替により第三殿を鏡神社に移築

(第四十七次式年造替)

昭和五十七年三月一日指定

鏡神社は大同元年(806)に

新薬師寺の鎮守として勧請されたと伝える。

(中略)

昭和三十四年の本殿修理中には、

屋根裏から「三ノ御殿」の墨書銘が

二か所で発見されている。(後略)」

300年前の本殿、貴重な存在です。

本殿に参拝。

春日大社の神紋、

下がり藤があしらわれています。

本殿手前の祖霊社。

本殿バックにツーショット。

比賣神社ひめじんじゃ

新薬師寺と鏡神社との関係は、

後述する比賣建立の経緯からも

神仏習合時代と変わらず、

持ちつ持たれつの

良い関係に思えてきます。

その最たるものが、比賣神社で、

敷地は新薬師寺、

祭るのは鏡神社の神職さんという

かなり異色の神社なのです。

新薬師寺の南東に建つ、比賣神社。

以前、ここは「比賣塚」と称され、

十市皇女とうちひめみこのお墓とされてきた所です。

その比賣塚が神社になった経緯が、

神がかった感動物語で、

その内容が紹介されています。

「夫婦で建てた比賣神社」

内容を超訳すると

十市皇女は、

後に天武天皇になる

大海人皇子おおあまのみこの子であり

大海人皇子の兄、

天智天皇の子である大友皇子の妻。

皇位を争った壬申の乱では、

父と夫の戦いとなり、

父の大海人皇子が勝利し、

敗れた夫は自害。

十市は父のもとに引き取られたが、

戦いの6年後宮中で突然死ぬ。

父の正妻である後の持統天皇からは

冷たくされたようで、

自殺ではないかとも思われている。

そんな皇女の霊を慰めるため、

個人で神社を建てた夫妻がいる。

夫の話によると

「昭和54年、

伊勢神宮に向かう車内で、

私の首に白いへびが巻いているのが、

妻の目に見えました。

妻には、

お寺の塀沿いにある「比賣塚」から

「祀ってほしい」と

頼んでいる声も聞こえたそうです。」

夫妻は神社を建てるべく奔走、

結果、土地は新薬師寺の名義、

「比賣神社」は鏡神社の摂社、

お金は夫妻が出すことで決まり、

2年後の昭和56年(1981)

比賣神社は完成した。」

このようになります。

こんな話を読んで、

素直に信じられる僕がいるのは、

昨年、高野山の「奥の院」に参拝し、

その旅の直後におきた

有り難い出来事

裏付けとなっているからです。

「比賣神社例大祭 献詠歌

新元号令和版」

参拝。

左の石像は、

十市皇女と大友皇子でしょう。

仲睦まじく、

心穏やかにお過ごしください・・・

神像石かみかたいし

比賣神社のすぐ左に、

神像石と書かれた一角があります。

何だろうと

案内を読んでみます。

「神像石由来

弘文天皇の御曾孫淡海三船公は、

本邦最初の漢詩集

「懐風藻」を編纂せられ

四面楚歌の中にありながら

曽祖父なる弘文天皇(大友皇子)

いませし日を顕彰せられ、

孝養を賛へ四代にわたる御姿石を

勧請し永く斎き奉らんとねがふものなり。」

このように書かれています。

弘文天皇とは大友皇子の事。

やはり、ここも

お二人の鎮魂の場ですね。

石に参拝。

皆様、安らかにお過ごしください。

 

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