福岡城ピクニック・予習編・名島門
火が付いた
今回、元FB友達であり、
現在リアル友達の(笑)
K氏が企画してくれた
「那国王の教室・福岡城ピクニック」。
このお陰で、僕たち夫婦は、
福岡城への興味に火が付いてしまい(笑)
このブログをスタートする
一週間前の12月18日、
K氏の案内で知った遺構や関連施設を
いくつか散策してきました。
何と、予習だけでなく
復習までしてしまったのです(笑)
学生時代は予習も復習も大嫌いだったのに、
今は喜んでやっているという
何とも面白い状況の今日この頃、
こんな僕たちにしてくれた
K氏の発信力と行動力には脱帽です。
裏御門
天守台から途中数カ所を散策しながら
K氏、P氏との待ち合わせ場所、
潮見櫓近くの
大濠郵便局を目指します。
裏御門(城内側)
以下、案内の抜粋です。
「特別な日に使用する表御門に対して、
裏御門は、藩士たちが
日常的に使用する門でした。
門の左手には
古時打櫓と呼ばれる櫓があり、
時刻を知らせる
太鼓が設置されていました。」
裏御門(外側)
登城時刻に遅れそうになった藩士が、
太鼓の音で、
慌てて駆け上がっていく姿が
目に浮かびます(笑)
松の木坂
少し下って「松の木坂」を通過。
松の木坂という割に、
桜の木が目立ちますが、
これは明治以降のものでしょうから
昔は松並木だったかもですね。
案内には、
「三の丸から西二の丸に登るための
2つの坂のうちの1つで、
南側の桐の木坂に対して、
松の木坂と呼ばれます。」
このように記されています。
以前から松の木坂は知ってたというか
何回も歩いていますが、
桐の木坂は初耳です。
かつてここにあった
松の木坂御門のCG写真。
旧母里太兵衛邸長屋門
坂を下り切り少し行くと
道路の向こうに
旧母里太兵衛邸長屋門が見えてきます。
横断歩道の白線と
なまこ壁の網目の白が一体となって、
なんとなく
幾何模様風になっていますね(笑)
案内を抜粋すると・・
「この門は母里太兵衛友信
(1556〜1615)の屋敷の門として
現在の天神2丁目にあったもので、
昭和40年(1965)に
この場所に移築されました。
福島正則から
名槍日本号を飲み取った逸話は
黒田節で有名です。」
このようになります。
正親町天皇は豊臣秀吉に日本号を下賜し
(天皇〜織田信長〜秀吉という説もあり)
この後、小田原征伐において、
韮山城攻めの功績により
福島正則へ授けられ、
それを母里太兵衛友信が飲みとり、
現在は福岡市博物館に保管されています。
こちらは福島正則が、
日本号を貰うきっかけとなった
韮山城から見た富士山です。
北条側守備隊の面々は、
こんな現実逃避してしまうほどの
美しい風景を見ながらも
周囲を豊臣軍に埋め尽くされ、
苦しい戦いを
強いられていたんですね・・
ここが槍を飲み取った現場(笑)、
京都伏見、福島正則の屋敷跡で、
江戸時代初期から現在まで、
御香宮神社となっています。
神社前には、
「黒田節誕生の地」の案内もあり
これを見た瞬間の僕たちは、
「こりゃ〜凄い所に来たもんだ!」
な〜んてテンション爆上がりでした(笑)
福岡市博物館訪問時に見た日本号。
どこかに秀吉や福島正則の指紋が
残っているかも?(笑)
名島門
名島門の写真は12月の「復習」で、
撮り直したものなので、
季節感が変わっています(笑)
枯葉散る中、
旧母里太兵衛邸長屋門から名島門へ。
案内を抜粋すると
以下になります。
「この門は、天正15年(1587)
小早川隆景が多々良川口の
名島に築いた名島城の脇門で、
慶長年間、黒田長政が居城を
名島城から福岡城に移すとき、
黒田24騎の一人である
林掃部にさげ渡され、
邸宅の門として使用されていたもので、
名島城の数少ない遺構の一つです。」
城内側。
邸宅の門としては大き過ぎだろう?
なんてツッコミを入れたくなる程
立派な門ですね!
城外(三の丸)側から。
下の橋御門・伝潮見櫓
集合場所に近付いて来ましたが、
最後にもう一つの見どころへ。
左が「伝潮見櫓」、右が「下の橋御門」です。
城外側から見た風景。
「伝潮見櫓」などについては、
K氏の解説が詳しいので、
ここでの案内は、
スルーということに(笑)
堀を挟んだ遠景。
端の反対側からの遠景。
カモちゃんたちが、
のどかに佇む光景に癒されます(笑)
もうすぐK氏、P氏達と合流です!
(続く)