御所ヶ谷神籠石(こうごいし)(福岡県行橋市)前編

 

神籠石とは

僕は、攻城団という

訪問したお城を記録出来るサイトで、

神籠石という存在を知りました。

お城のサイトにあるのですから

やはりお城なのです。

ただ、この神籠石、

近代まで、石積みなどは、

霊域を表すものであり、

一種の祭祀場所のようなものと

考えられて来ました。

その後、調査の結果、霊域説は覆り、

これらは古代の山城で、

今から約1300年前の紀元633年、

朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で、

日本が唐と新羅の連合軍に敗北後、

国土防衛の為に大和朝廷が

朝鮮(百済)の技術で、

九州を中心に西日本各地に

作ったものとされています。

その山城の中でも、

日本書紀などの文献に

全く出て来ないものを

神籠石と言う名称で呼び、

文献に記されている大野城などは

「城」という言い方になって、

朝鮮式山城とも言われています。

ただ、これは近年、神籠石も

「山城」としてまとめられつつ

あるようで、

霊域説がらみで付けられた

神籠石という名前が実際の内容(お城)と

整合性が薄いので(推測)

やはり名前の統一は主流となるでしょう。

御所ヶ谷神籠石へ

大野城もそうですが、

地元の福岡に

これだけ大規模な古代山城が

あるなんて、還暦間近まで

全く知りませんでした。

その御所ヶ谷神籠石は、

福岡県の東側、行橋市の

周防灘に面した

交通の要所の山にあります。

駐車場。

改めて詳しい案内を

確認し、ルートを決めます。

ここから行くと、

御所ヶ谷神籠石で一番の見どころ、

「中門」への最短距離です。

しかし、僕たちは、

山をぐるっと半周するコースなので、

東門へと向かいました。

300mと言っても

山登りの300mは、

かなり体力を奪います(汗)

麓では、後世に作られた

祠やお地蔵さんが迎えてくれます。

お城跡の石の上に

仏様がいます。

このあたりの石も

お城の痕跡でしょう。

阿弥陀如来と虚空蔵菩薩。

まさに山登り。

途中で見つけた亀のような石。

亀の頭アップ。

ここはシダの群生地。

なんだか密林をかき分けて

戦場に赴く兵士になった気分です。

そして、密林が突如として開けると、

こんな光景が目に入ります。

お〜東門の石垣だ!

1300年前の人が、

ここを通ってお城に

出入りしていたのですね..

同じ場所にいるとは

感無量です(言い過ぎ?)

ここからは下界を

眺めることが出来、

敵軍を見渡せるこの場所に

山城を築いた意味がわかります。

そして、少し行くと、

見えて来ました、中門が!

相当に大規模な石積みです。

谷にある門を目指して降りていくと

立派な案内があります。

さすが、国指定史跡だけあって、

史跡の整備が素晴らしい。

石を長方形に整形して

積んでいるのは大野城とも

共通しています。

水門近くからの全体像。

戦国時代末期のお城でも

石の積み方によって、

石垣に水門が作られていない場合も

多々ある(構造上不要なので)のに

1300年前のこの石積みには

これだけ立派な水門が、

装備されていたとは、

朝鮮(百済)の技術力の高さは

相当なものだったようです。

案内板。

1300年の長い間には

台風、大洪水など多くの

天災があったでしょう。

それなのにこれだけのものが、

形をとどめていたなんて奇跡ですよ。

水門アップ。

頑丈な作りは迫力満点。

水門の中。

石積みの上側から撮影。

石と石のすき間が

ピッタリ揃っているのが、

良くわかります。

いくら見ても飽きません(笑)

やはりここでツーショットは

残すしかないでしょう(笑)

水門を下った所には、

祠や石仏があります。

江戸時代以前の人もこの水門に

畏敬の念を感じていたから

ここに神仏を祀ったのかも

知れませんね。

新しい社。

「十九番地蔵菩薩」

八十八ヶ所巡りみたいなものの

一つなのでしょうか?

中門を通り次の目的地へ。

本当に見どころ満載の

御所ヶ谷神籠石、

来て良かった〜

いや、まだこれからだ〜(笑)

後編へつづく。

 

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