野村望東尼の墓(山口県防府市)
二つのお墓
野村望東尼の墓は、
福岡市の明光寺と、
山口県防府市の大楽寺近く、
市営桑山墓地の二つにあります。
前者は勤王志士などとは、
まだ関わりのない頃のもので、
夫が亡くなった時、
夫の墓碑横に自らが建てた
生前墓(多分)で、墓石は小さく
「ひっそり」と佇んでいます。
また、後者は勤王歌人として活躍後、
防府で亡くなった時に
葬られたお墓になり、
こちらは、墓石も巨大で、
野村望東尼を勤王歌人として、
また、
長州藩の倒幕を支えた恩人として
大いに顕彰されている
言わば公的な墓のように感じられます。
夫が亡くなるまでの望東尼の人生と
それ以降の人生は、
まるで別人のようなものですが、
これを改めて肌で感じられたのは、
やはり望東尼さんの終の住処となった
防府市に足を運んだからに
他なりません・・・。
お墓への道
大楽寺の南墓地を参拝後、
野村望東尼の墓へ。

あと400m。

この辺りには、
このようなお地蔵様(石仏)が、
至る所に安置されています。

この地域の習慣でしょうか?
どなたかが亡くなると、
一体のお地蔵様を建立するとか・・
勝手な想像ですが・・

あと170m。

まだお墓のかなり手前ですが、
案内があったので、
書き出してみます。
「野村望東尼の墓」
「野村望東尼は、
筑前国(福岡市)生まれの
幕末に活躍した女流歌人です。
元治元年(1864)に
藩内保守派に追われた
高杉晋作をかくまい、
功山寺の挙兵へとつなぎました。
慶応3年(1867)には、
高杉晋作の死を看取り、
薩長連合軍が倒幕のため
三田尻から海路で東上するのに際し、
戦勝祈願のために防府天満宮に
7日間参拝し、
七首の和歌を奉納しました。」
最後の防府天満宮のくだりは、
初めて知りました。

あと150m。
ここでは、
「明治維新勤王女流歌人」と記され、
望東尼さんがどんな人なのかが、
説明されています。

「野村望東尼の歌碑」
ここにも道の両側は、
お地蔵様だらけですね!

歌碑アップ。

「野村望東尼の歌碑」
「冬籠り怺えこらえて
ひとときに花咲きみてる
春は来るらし
(冬籠りをして、
こらえにこらえていた花が、
一斉に咲き満ちる春が来るらしいです。)
勤王の女流歌人野村望東尼は、
慶応三年九月、討幕軍の船出を見送り、
その戦勝を祈願するために当地を訪れたが、
十月半ばから病臥して、
十一月六日、六十二歳で客死した。
碑の歌は、
望東尼が生涯の最後に残した歌で、
討幕軍の戦勝、あるいは間近に迫った
維新の夜明けを予感させ、
予祝する歌となっている。
防府野村望東尼会」

あと80m。
ここで初めて
「勤王歌人(福岡県人)」と
出身が福岡であることが、
紹介されています。
案内ごとに進化していますね(笑)

さらに先へ。

大正六年五月六日に建立された
「望東禅尼五十年記念碑」。

ここにもお地蔵様・・

市営桑山墓地の入口。
墓所
墓所の入り口には、
最後の案内があります。

「明治維新勤王歌人
野村望東尼墓
(福岡県人)」
ここでは遂に(笑)
フルコースでの説明になっています。

望東尼さんのお墓は奥です。

お墓に到着。

裏面には漢文がぎっしりと
刻まれていますが、
親切なことに意味が詳しく
紹介されています。

「野村望東尼の墓」
「この墓碑は、望東尼の追贈を受け、
楫取素彦が中心となって、
昭憲皇太后の御下賜金や、
三条公、毛利公など御協力のもと、
明治二十六年に重修されたものです。
墓碑の裏は、素彦が撰文し、
本多国敬が敬書しています。
銘は「詩経」の四言句になぞらえた
格調高い重荘な韻文となっており、
意味は概ね次のとおりです。
「山荘は平尾の山々の連なりにあり、
望東尼が町の喧噪を絶って住まわれる。
深く刻んだ勤王の心は志士と等しく、
姫島に幽閉されるも落ち着き払い、
獄にあるも家にあるも、
いかなる境地にあっても変わることがない。
朝廷が叙勲し、天が報いたが、
実に天の摂理が回復して
世俗の権力を抑えることとなり、
世の推移には正義がある。
私も望東尼の生涯に照らして
何をするべきかを悟るのであった。」
楫取素彦、65歳のときの漢詩です。」
これは、ビックリです!
先にお墓にお参りした楫取素彦さん、
こんな事までされていたんですね!
楫取素彦さんのお名前、
これで遂に「暗記」しました(笑)
やはり防府に足を運んで、
本当に良かったですよ!
福岡にいるだけでは、
こんな深いことを知る術も
限られていましたから。

妻と比較すると
いかに巨大な墓石かが
理解できます。

参拝。

望東尼さんの同志ともいうべき
晋作さんも寄り添われています・・