源範頼の墓(静岡県伊豆市)
狡兎死して走狗烹らる
平家追討の最前線において、
戦う両輪であった源義経と源範頼。
ふたりの活躍で平家は滅び、
平家という「兎」はいなくなり、
それを追い、仕留める
有能な「狗(いぬ)」(義経・範頼)は
主君(源頼朝)に牙をむくかも知れない
ただの厄介者になってしまいました・・・。
両人とも平家滅亡後ほどなくして
「謀反の疑い」をかけられ殺され、
まさに「狡兎死して走狗烹らる」の
典型的な例となったのです。
源範頼の墓へ
浄蓮の滝で身も心も
清らかになった(はず?)ところで、
この旅最後の目的地、修善寺へ。
範頼さんのお墓は、
修善寺の前を流れる桂川の
北側の丘の上に位置しています。
(この地図では下部が北です)
駐車場からスタート。
「源範頼の墓参道入口」
至るところに案内があるので、
迷うことはありません。
「蒲冠者源範頼公墓道」の標柱。
Wikipediaで調べると、
「遠江国蒲御厨(現・静岡県浜松市)で
生まれ育ったため
蒲冠者、蒲殿とも呼ばれる。」
このように書かれています。
右、修善寺360m
左、源範頼の墓130m
あと120m。
エントランスに到着。
伊豆・修善寺温泉と染め抜かれた
源氏の白旗が、
気分を盛り上げてくれますね!
源範頼の墓。
案内を書き出すと以下になります。
「範頼は鎌倉時代初期の武将。
源義朝の第六子で蒲冠者と呼ばれた。
治承4年(1180)に兄頼朝と
義仲が対立した時、
弟義経と共に義仲を倒し、
次いで一の谷の合戦で平家を破り、
功によって三河守に任じられた。
その後頼朝と義経の仲が険悪化し、
頼朝が義経討伐を命じたが断ったため、
頼朝から疑われるようになった。
建久4年(1193)
曽我兄弟仇討ちの際、
頼朝討死の誤報が伝えられ、
悲しむ政子を「範頼ある限り安心を」と
慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。
範頼は百方陳弁に努めたが、
ついに修善寺に幽閉され、
さらに梶原景時に攻められ、
日枝神社下の信功院で
自害したと伝えられている。」
何かと難癖つけて追い込む、
「走狗烹らる」の典型的な展開ですね。
頼朝さんの猜疑心や恨み、憎しみは、
結局は自分の子供(頼家・実朝など)や
その孫たちも、
その多くが非業の死を遂げてしまうという
無残な結果を生むことになるのですが、
そんな源氏の行く末を天から見ていた
範頼さん、何を思っていたのでしょう・・・
木々の中にお墓はあります。
参道左側の池。
手水鉢。
お墓に到着。
数珠を持って参拝。
このお墓について、
伊豆市観光情報サイトには、
以下のように書かれています。
「修禅寺から西の小山地区の山腹にあり、
源範頼の墓と伝わる祠があったが、
明治12年に骨壺が掘り出され、
範頼の墓を裏付けるものとなりました。
現在の墓は昭和7年に、
日本画家・安田靫彦の
デザインにより建立されたものです。」
こちらは明治時代半ばに建てられた
源範頼に関する石碑。
ですが、
漢文なので内容はあまりわかりません。
範頼さんのお墓近くに建つ
千手観世音菩薩板碑。
ここまでで、
源範頼のお墓参りは完了です。