佐藤継信と太夫黒の墓(高松市)

 

日本史に残る大仕事

源平合戦、屋島の戦いにおいて、

源義経の身代わりになって

討死した佐藤継信は、

源氏の忠臣として、

後世に名を残していますが、

この人にまつわる

源氏と平家双方に、

忠臣とその主君との

心に刺さる物語があり、

それは屋島にあった

人物紹介パネルでも案内されています。

「佐藤継信」のパネル。

内容を時系列でまとめると

以下になります。

平家 能登守教経、義経に強弓を放つ

源氏 佐藤継信が義経の盾となり討死

平家 教経の家来である菊王丸、

・・・継信の首をとりに行くも討死。

平家 教経自ら、菊王丸を味方船へ

・・・投げ入れるも息を引き取る。

源氏 義経は継信の忠死を悲しみ

・・・愛馬を僧呂に贈り供養を任せる。

平家 教経は弱冠十八歳だった

・・・菊王丸の死を哀れみ屋島に亡骸を葬る

源氏と平家の各人物が

其々の使命を背負い、

目の前に躍動しているかのように

感じられます・・・

そしてもしも、

ここで義経が討死していたら・・

屋島で平家が盛り返したか否かは

わからないものの、

その後、

義経が活躍した壇ノ浦の戦いも、

兄頼朝から追討を受けての、

静御前との吉野の別れや、

安宅の関の勧進帳とか、

なんもかんも無かったはず(笑)

そう考えれば、佐藤継信さん、

命を賭して日本史に残る大仕事を

やり遂げられているのです!

佐藤継信と太夫黒の墓へ

丸亀藩主が建てた、

佐藤継信の墓に参った後、

ちょっと迷いながらも

無事もう一つのお墓の前に到着。

墓域正面。

案内を書き出すと

以下になります。

「佐藤継信の墓

源平合戦の際、義経の身代りとなって

戦死した佐藤継の墓です。

寛永二十年、

松平頼重公が新しく墓石を建てて、

その忠死を称えました。

昭和六年五月、

継信三十世の孫・山形県人佐藤信古氏が

更に大修築を加えて面目一新しました。

”胸板をすえて忠義の的に立ち”

「太夫黒の墓

この墓は継信の墓域内の右奥にあります。

この馬はもと後白河法皇から

義経に賜わったもので、

継信の忠死を賞揚する余りにに、

義経はこの馬を志度寺の覚阿上人に施して

若堤を弔わせました。

太夫黒がたおれて後、

ここに埋めたといわれています。」

佐藤継信の墓

門が閉まっていたので、

お参りは門外からかと思いつつ、

過去の経験から

「鍵はかかっていないかも?」

そう思って

門扉を押すと予想は的中(笑)

お邪魔します。

まずは、門を入って右奥、

佐藤継信さんのお墓へ。

素晴らしく整備された墓域。

まずは参拝。

墓碑の裏側には

寛永の文字がありますので、

江戸時代初期、家光さんの

時代に建立されたものでしょう。

予想通り(笑)後には

古い五輪塔があります。

大体オリジナルは後に隠れているもの、

佐藤さんも例外ではありません。

左が江戸時代の墓碑、

右が年代不詳の五輪塔。

改めて五輪塔(お墓)に参拝。

太夫黒の墓

次は正面向かって右奥の

太夫黒の墓へ。

義経の名馬、太夫黒。

お墓(右)と供養塔(左)に参拝。

「太夫黒馬埋處」の文字。

裏面。

「寛永癸未」の文字が見えますので、

寛永二十年(1643)の建立ですね。

先ほどの佐藤継信さんの墓標と

同時期に建立されたものかも

知れません。

ベンチを馬に見立て、

乗馬した姿で、

太夫黒さんを楽しませる妻(笑)

御霊はしんみりよりも

楽しいことが

好きなんですからね!

最後にメインの石碑へ。

佐藤さんの墓と

刻まれているのかな?(笑)

最後にツーショットで〆。

墓町りができた満足気な妻の顔に

ホットしていたら、

お隣に住まれている方が、

「門を開けてお参りできますよ!」

こんな声をかけてくださいました。

参拝は完了していましたが、

訪問先での暖かなおもてなし、

本当嬉しいものですね!

 

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