八海山法音寺(米沢市)

 

八海山

法音寺の山号「八海山」の文字を見ると

僕と妻の脳は条件反射的に、

新潟のお酒「八海山」を想起させます(笑)

一時期、八海山の梅酒に凝ったことが

そうさせるですが、

めっちゃ俗まみれではあるものの、

お寺に親近感がわくという意味では、

想起しないよりは「まし」かな?(笑)

参道

米沢城から上杉家廟所(墓所)へ。

駐車場。

上杉家廟所への参道。

次に行く予定の

直江兼続夫妻のお墓がある

春日山林泉寺の案内と

「御廟一丁目」という地名で、

心は一気に墓参モードに!

たかが電柱、されど電柱、

ここに電柱があって良かった〜(笑)

既に廟所の入り口が見えていますが、

まずは手前の

上杉家の菩提寺である

法音寺を先に参拝することに。

山門

駐車場からは、

あっという間でお寺に到着(笑)

山門。

案内を抜粋すると

以下になります。

「八海山法音寺

当寺は、天平九年(737)、

聖武天望の命を受けて

藤原政照公が諸国巡視中、

越後(新県)八海山の麓で死し、

その菩提を弔うため、

行基菩薩が勅命によって

其の地に法相宗の寺を

建立したのが始まりです。

寺号は政照公の成名「法音大居士」に

依ったものです。

その後、

越後国真言宗国分寺兼務を命ぜられ、

源頼朝公の祈願寺となり、

さらに天正年間には上杉謙信公の

帰依寺となって春日山に移りました。

慶長六年(1601) 上杉家が

会津を経て米沢に移られたのに随って、

上杉景勝公により米沢城二の丸に建立され、

また米沢城本丸に建てられた謙信公の

御遺骸を祀る御堂に勤仕する

真言宗二十ーケ寺の筆頭寺院となって、

米沢藩主上杉家菩提寺となりました。

明治になって廃藩置県、

神仏分離令などの措置により、

明治三年(1870)

藩命に依り、此の地に移りました。」

本尊などの案内。

「善光寺如来(法音寺)」

「法音寺は上杉家歴代藩主の菩提寺で、

秘仏の善光寺如来三尊像と

付属の仏具を安置している。

その来歴は、弘治元年(1555)の

第二回川中島合戦の際、

上杉謙信は長野善光寺の

仏像・仏具を越後に持ち帰り、

その後

上杉家の移封に伴って米沢に移った。

米沢城本丸の

謙信遺骸を祀る御堂に安置され、

維新後は上杉家で所持、

昭和九年に上杉家から

法音寺に納めれれた。」

このように記されています。

武田信玄も戦場となった善光寺から

本尊の善光寺如来像などを持ち出し、

甲斐善光寺に安置していますが、

戦乱からの救出という意味あいも

あったのかも知れません・・

こちらが文中にある、

謙信遺骸を祀っていた

米沢城本丸の御堂(祠堂)跡です。

ここに

善光寺如来三尊像と付属の仏具が

安置されていたという事は、

かなり大規模な

御堂だったのでしょう・・

山門右側の石仏。

弘法大師像かお地蔵様か・・

左側の石仏。

本堂

山門をくぐると、

右手は墓域で、

正面が本堂となっています。

今月のことば。

「花」「水」「木」が

楽しく生きる三要素なんですね!

全部自宅にあるから

僕たちは楽しい?・・はず(笑)

本堂へ。

参拝。

鏑懸魚の奥、

左は宝輪、

右にはお寺マークの「卍」。

津軽藩のお寺では卍を見ることも

しばしばありますが、

ここで卍に出会うとは、

ちょっと嬉しいですね!

輪違紋

本堂参拝後、

古い五輪塔を発見。

どなたかの

お墓か供養塔でしょうか・・

ただ僕たちの視線は

こちらに行ってました・・

輪違の紋。

豊臣秀吉の子飼いの家臣、

賤ヶ岳の七本槍の一人、

脇坂安治の家紋と同じですが、

何か関係があるのかと調べて見ると、

これは「真言宗の寺紋」でした。

今まで真言宗のお寺には

沢山参拝しているのに、

全く知らなかったな〜(笑)

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください