八甲田山雪中行軍遭難資料館・前編
ほんの一握
青森歩兵第五連隊の悲劇、
日露戦争に備えた雪中行軍訓練中、
210名中199名が死亡した、
明治三十五年の八甲田山雪中行軍遭難事件。
記録も資料も墓標も、後世に残され、
誰もが、その歴史を知り、
記憶を継承する事が出来ます。
しかし、
戦争に於いて世界各地で起きた
その何十倍、何百倍の悲劇は、
ほぼ僕たちの目には触れません。
登山関連で一つ例を挙げれば、
第二次大戦中、
日本軍がニューギニアの
ラエからキアリに撤退する際に、
赤道近くとはいえ、
気温が零下10度位にもなる
4000m級の急峻な山を夏装備で越え、
過酷な自然との戦いで、
1000名以上の日本兵が、
亡くなっています。
中学生の頃これを知った僕は、
無謀な命令の下、敵との戦いでなく
登山で凍え死ぬなんて、
御英霊達は、さぞかし無念だったろうと
頭がモヤモヤしたのを思い出します・・
ただ、これは悲劇のほんの一握り。
でも、ほんの一握りでもいいから
「伝えていく」しかないのでしょう・・
そんな一握りの代表の一つが、
八甲田山雪中行軍遭難資料館の存在です。
青森歩兵第五連隊正門
青森旅の4日目、
青森地方は濃霧注意報が発令され、
ホテル上空も霧だらけ(汗)
三泊四日、
最高の拠点を提供してくれた
感動するほどの
素晴らしい対応をしてくださった
駐車場のおじ様にも
心の中でお別れの挨拶を終え、
まずは、青森歩兵第五連隊正門が
今もそのまま
正門として使われている青森高校へ。
門に到着。
きっと遭難した御英霊達も
この門を見ていた事でしょう・・
門横の案内板には、
雪中行軍の悲劇などの
案内もあります。
八甲田山雪中行軍遭難資料館へ
正門見学後、
八甲田山ロープウェイへと
向かう予定でした・・
しかし、
濃霧注意報が発令された事で、
行き先を山から平地の
八甲田山雪中行軍遭難資料館の前に、
そちらを巡ったのですが、
ここでは
青森歩兵第五連隊正門から資料館へ
直接行った体で書いています(笑)
午前10時過ぎ、駐車場に到着。
駐車場から資料館へ向かいますが、
一旦正面玄関をスルーし、正門へ。
正門。
旧陸軍境界石。
資料館全景。
玄関。
ヘッドマークは、
「後藤伍長の銅像」。
そして館内に入ると
正面にそびえ立つのが、
やはり「後藤伍長の銅像」です。
これは、資料館から15分ほどの
八甲田山方面に建つ、
後藤伍長の銅像のレプリカです。
僕たちは、本物まで行く時間がなく、
ここで銅像を見られるのは、
本当にありがたいことです。
銅像の案内を要約すると
以下になります。
「明治35年(1902)
1月27日午前11時、
後藤房之助伍長は、
仮死状態で立ったままの姿で発見され、
その証言が捜索活動の
きっかけとなりました。
後藤伍長の銅像は、
雪中行軍遭難者210名を顕彰するため、
明治37年(1904)10月、
全国の将兵達の寄付によって
建立されました。」
まるで弁慶の立ち往生のような人ですが、
弁慶と違い、往生せず、
「仮死状態」という類稀なる生命力で、
数少ない生存者発見に繋げた功績、
計り知れません・・。
展示室
銅像前で、一通り、
ボランティアガイドさんの説明を聞き、
展示室へ。
館内図で左回りで一周する事を確認。
パンフレットだとこんな感じです。
エントランス。
氷柱(ツララ)の先に、
八甲田山の雪山が見えています・・・
プロローグの演出、
厳冬の八甲田山・・
心に染み入ってきます・・・
ここからは、
パネル写真と、その超訳を書きます。
「時代背景と世界情勢」
「日清戦争に勝利したものの
その後の遼東半島返還の三国干渉、
ロシアの朝鮮への進出計画など、
日露戦争勃発直前の緊迫感に
包まれていた」
「当時の青森」
「明治31年(1898)青森市制が
施行されました(人口28000人弱)
明治24年に青森〜上野間、
明治38年に
青森〜福島間の鉄道が開通。
明治41年には青函連絡船が就航し、
明治30年代は、
今の青森市の基盤が作られた
時代だったといえます。」
「二つの雪中行軍」
「青森から八甲田山を目指し、
遭難した第五連隊とは別に、
弘前から第五連隊が辿る予定だった
逆方向からの行軍した
第三十一連隊があり、
こちらは一人の犠牲者も出さず
下山しています。」
当時の青森地形模型。
第五連隊が携行した物。
「第五連隊の物資輸送」
「橇(そり)に弾薬、食糧、
薪炭などを積んで引く行李隊が
輸送に当たりました。
ソリは14台、総積載重量は
1.2トンにもなり
ソリ1台で約80Kgに
なっていたようです。
このソリ1台を4人で引く事が基本ですが、
もともとソリは
平地を引くことが目的で舵がなく、
雪の斜面では谷側に横滑りして、
不向きとされています。
この輸送手段も
後の悲劇に結びつく
要因にもなりました。」
ソリ一つとっても
「慢心」があったのでしょう・・・
「これでいいだろう」的なものが
重複し、最悪の事態の
要因となるケースの
典型でもありますね・・・
(後編に続く)